芸術史ラボでの課題文

社会を振り付ける、
ハイブリッドな20世紀舞踊史
砂連尾理氏の回での提出文
(吉田高尾)


===参考映像===
・Simone Forti
「Huddle」
“Dance Constructions 1~5”

・Trisha Brown

・土方巽
「疱瘡譚」

・Pina Bausch

・William Forsythe

・dumb type

・Jerome Bel
「The show must go on」
「pichet klunchun and myself

・Tino Sehgal

===参考図書===
・「バレエとダンスの歴史」(平凡社)の2部ダンス以降。

・「美術手帖2018 8月号 特集ポストパフォーマンス」

===課題===
A、グローバリズムが世界の隅々まで広がり、その矛盾も含め加速し、ますます多様化・混迷化する社会の中で、この時代に於けるダンス、特にコンテンポラリーダンスをどう定義するか?を考えてきてください。
そしてそれはなぜそう定義するのか、その根拠も簡単で良いので記述ください。

B、上記の定義を示した上で、次のパラダイムにシフトしていくためのダンスの可能性、 またダンスが果たせる事柄、役割についてを、既存のダンスの意味に囚われることなく拡大解釈して考えてみてください?
もし実演家なら、(舞台という形式に囚われることなく)どんなダンス・役割を創造してみたいか?
そしてドラマトゥルク、制作者ならどのようなダンス作品・場・職などをプロデュースしてみたいか?
上記の人以外は、上記のいずれかを選んでお願いします。

上記のA、Bの課題について自分なりの考えを、A4で1枚程度にまとめてください。

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A.コンテンポラリーダンスの定義
 参考図書である『バレエとダンスの歴史』は以下の文章で締めくくられる。「コンテンポラリーダンスとは、従来の美意識や世界観、歴史認識、知覚、身体のあり方を、上演によって書きかえる、絶えざる試みにほかならないからである。」コンテンポラリーとは、流行、マーケットのことではなく、それらに対抗し、生成する同時代のことだと主張をする人は今なおいる。上記の文章だけを根拠にするのは心もとなくはあるが、とりあえず、同時代であることは反時代であることだとして、そのことを共有する同時技術をコンテンポラリーダンスと定義したい。しかし、この同時技術は新聞や映画、テレビが時代の主役であった国民国家の時代であれば、有効であったかもしれないが、インターネットがここまで普及し、ポストトゥルースによって分断され続ける現在の私たちの社会において、今でも有効と言えるのだろうか。もはや、同時の断念、コンテンポラリーであることを断念すべき時がきたのではないのだろうか。もし、今なおコンテンポラリーダンスをする意義があるとすれば、それは、コンテンポラリーが確かに過去にはあったことを明らかにする機能しかないのではなかろうか。その証左に参考図書である『美術手帖 特集ポスト・パフォーマンス』の「パフォーマンスの最前線をひもとくキーワード」の10個中4個が歴史と関係している。(サイトスペシフィック?、古典芸能民俗芸能、リエナクメント、ドキュメンテーションアーカイブ)

B.アートとしての病
 コンテンポラリーには上記とは別の解釈として、「イマココ」で上演されている側面を強調する場合もあります。しかし、そんなことを言ってしまえば、全ての見るもの聞くものに対して適用できてしまうため、何も言っていないに等しいと思うかもしれません。もっと言うと、私たちの認識には時間がかかるので、「イマココ」と感じていることすらも少し過去のことだということは前提だと思う人も多いでしょう。時間と空間は絶対で私たちは現在にいるというニュートンやカントの前提が、アインシュタインやベルクソンによって問い直されてから100年が経った今?改めて問うこと自体が時代遅れだと感じる人もいるかもしれません。もちろん、私たちが「イマココ」をリアルタイムで認識することには、超えられない谷があります。しかし、その谷の近くまではまだまだ距離があるようにも私には思えるのです。そこで昨年発売された持続型血糖モニタリングデバイス「リブレ」という機械によって、その谷に近づけるのではないかと提案したいと思います。この機械によって、「身体へのアクセス性」は劇的に向上し、その結果アクセス頻度を増大させ、常時血糖値の情報は記録、蓄積されます。そして、その測定値によって、人の食生活、日々の行動、考え方もまた変化します。上記Aの定義の際に、同時代ということを共有することを断念するべき時が来たと私は書きました。その断念した先にバラバラとなった個人の身体において、新たなダンスの萌芽があるのではないか。そう思うきっかけになったのは、昨年批評再生塾で副総代となった現役医師、批評家でもある太田充胤氏の執筆した、「アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』」でした。この論考の最後で彼は管理社会と個人の意思、健康についての思考を深めながら、アートとしての病について言及しています。強制と自由、オートとマニュアル、キャラクターとプレイヤーそれらについて思考した先に新たなダンスの可能性があるのではないかと私は思います。

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