==課題===
チェホーフ「桜の園」「かもめ」(神西清訳)新潮文庫
を読んだ上で、以下の宮沢さんからの問いについて、自分なりの考察を、A4で1枚程度にまとめてください。
「なぜチェーホフはそれを書くことができ、それが普遍性を持ったか。さらに約100年後にチェルフィッチュの岡田利規が提示した『劇言語』『身体』と比較したとき、なにがこの百年で演劇に変化をもたらしたのか」
==考察===
●チェーホフが普遍性のある「未来」を書けた理由
一九世紀ロシアの宗教思想家、ニコライ・フョードロフの影響があった可能性があると大胆に提案する。ニコライ・フョードロフは、ロシア宇宙思想の基礎を築いた人物で、人類が繁栄した暁には、これまでに生きた全ての人を遺伝子工学によって甦らせるべきだとし、そのために自然を克服し、宇宙を開発して、居住空間を確保することを考えた。ドストエフスキーや、トルストイにも影響を与えており、チェーホフの『三人姉妹』の終盤におけるオーリガの台詞にそれが見られる。
やがて時が経つと、わたしたちも永久にこの世にわかれて、忘れられてしまう。わたしたちの顔も、声も、なんにん姉妹だったかということも、みんな忘れられてしまう。でも、わたしたちの苦しみは、あとに生きる人たちの悦びに変わって、幸福と平和が、この地上に訪れるだろう。そして、現在こうして生きている人たちを、なつかしく思い出して、祝福してくれることだろう。ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだおしまいじゃないわ。生きて生きましょうよ! 楽隊の音は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聞いていると、もう少ししたら、なんのためにわたしたちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ。……それがわかったら、それがわかったらね!
また、『桜の園』の中で万年大学生であるトロフィーモフの台詞である
僕は自由な人間なんだ。君たちみんなが、金持も貧乏人も一様にありがたがって、へいつくばる物なんか皆、ぼくにとっちゃこれっぽっちの権威もない。(中略)僕は強いんだ、誇りがあるんだ。人類は、この地上で達しうる限りの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前列にいるんだ!
この台詞に対して京都の劇団地点が上演した際には、ミラーボールを回すという演出が行われる。そこにあるのは「未来」に対しての夢想的な情熱と、「現在」において苦痛の中にある人々に対する慈悲である。この点においてチェーホフの作品は普遍性があるのではないだろうか。
●岡田利規が提示する「演劇」
岡田利規の戯曲『NO SEX』の終盤で以下のような台詞がある
<現在>において<未来>に遭遇したと彼は思ってる。でも、ここから先は単純な疑問として湧くことなんだけど、じゃあそれってたとえば、<未来>において<現実>と遭遇したって言い換えることってできるのかな。
<ヒトという種>ってときどきそういうふうに<未来>って言葉を使う傾向があるなっていうことなんだけどね、つまり、現在すでにそういう状況に実はなってるんだけど、そのことはまだちょっと認めたくないかな、それはまだここには存在してないってことにしておきたいかなっていうとき、それを<未来>って名付けて今はまだここにはないものってことにしておくっていう傾向のことなんだけど。
これは<未来>は既に来ていて、それをまだ受け入れられない人たちにとっては、<現実>(NOT<現在>)ですら<未来>になってしまうというように読める。それはチェーホフの示した「未来」とは異なる<未来>であり、<現実>と溶け合う近未来である。また、前作の『NŌ THEATER』の中の『能「都庁前」』では、東京都議会の「産めないのか」発言に抗議する女性の亡霊?の地謡の最後の謡で、
私たちを弔うためにはこの都市の、この国の、
メカニズムが、変わらなければいけない。
そうでなければ私たちの魂が鎮まることはない。
人口が減り、経済がやせ細り、
あなたたちは滅びていく。
この謡を<未来>と見るか、<現実>と見るか。
岡田利規は『<映像演劇>宣言』の中で、
「フィクションとは、オルタナティブな現実のことだ。演劇が現実の場においてオルタナティブな現実を生じさせるというのはすなわち、それを現象として生じさせるということにほかならない」
と定義している。ここで言う「オルタナティブな現実」とはもう一つの<未来>であり、もう一つの<現実>であると言えるのではないだろうか。それは岡田利規の提示する「演劇」という装置が、チェーホフの「演劇」における「未来」ではなく、別のもう一つの<未来>と<現実>を見せる「パラレルワールドタイムマシーン」としての変化を「演劇」にもたらそうとしていると言えるのではないだろうか。