芸術史ラボでの課題文

社会変革と映像
20世紀映像表現史
藤井光氏の回での提出文
(吉田高尾)


===課題図書===

・複製技術時代の芸術|ヴァルター・ベンヤミン

・シネマ2*時間イメージ 第7章「思考と映画」|ジル・ドゥルーズ

===課題===
森美術館で開催の「カタストロフと美術のちから」展を鑑賞してきてください。 その際、現代におけるカタストロフの表象不可能性|想像可能性について思考してください。
上記の課題について自分なりの考えを、A4で1枚程度にまとめてください。

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・カタストロフの表象不可能性
 現代におけるカタストロフに対する人類共通の課題とは、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの有名なテーゼを知っている上で、カタストロフの表象を禁止し、カタストロフの記憶を特権化する身振りによって忘却・抹消していくかわりに、表象行為に必然的にともなう暴力性を認識しつつも、あえて〈表象不可能なもの〉を表象するという課題を引き受けなおすということではないだろうか。しかし、私の実感としては、過去のカタストロフを表象することは、別の現在のカタストロフの拡大再生産、縮小再生産によってもたらせているというように思える。そう思ってしまうのは、椹木野衣が言うように、私自身が住む日本が自然災害による蓄積の無い「悪い場所」であることが原因であるようにも思える。しかし、「良い場所」であるはずのヨーロッパにおいても、シリアの難民問題という新たなカタストロフが発生し、それを過去のカタストロフによって、相互に表象しあっているようにも思える。その表象のひとつとして、藤井光の《The Primary Fact(第一の事実)》がある。

・藤井光の《The Primary Fact(第一の事実)》解題
 ドゥルーズは『シネマ2※時間イメージ』の中で、エイゼンシュテインの映画を取り上げ「群衆の個体化を主体とするのであって、一人物の個体化を主体とするのではない」として、ソ連映画とアメリカ映画のそれぞれの特殊性を分析している。藤井の作品の中では、この「群衆の個体化」はエイゼンシュテインのモンタージュではなく、2700年前の死者を演じる80名の男たちの「顔」によって表現される。それは、ドゥルーズが『シネマ1※運動イメージ』の中で言った「顔はそれ自体がクロースアップであり、クロースアップはそれ自体で顔である」という言葉で表現すると、複数の死者の顔にピントが合っているそのショットは、「複数のクロースアップ」によって成立している。そしてそれはドゥルーズが同書で「「カメラ目線」とは全体的な反射を成立させ、クロースアップにそれ固有の遠さを与えるものである」とあるように、死者たちの「カメラ目線」は、ベンヤミンの言うアウラ「どんなに近くにあっても遠い遥けさを思わせる一回限りの現象」に漸近する。しかし、死者たちが崩れ落ちる瞬間にこれらは興ざめすることになる。有限なダンスを媒介にして、無限の死へと結びつけるロマン主義は、現代のカタストロフに対して、いや、歴史上のカタストロフに対してさえも有効でありえるのだろうか? このコレオグラフを単なるおままごとではなく、ブレヒトの言う「ゲストゥス」叙事詩的な身振りへと変貌させるのは、音楽でもなく、役者の断末魔でもない。淡々とした人文科学と自然科学の間で揺れ動く学者の解説が、積み重なる死体を換骨奪胎する。しかし、それを「きわめて散漫なる試験官」である観客は取り返しのつかないカタストロフの表象として認識するだろうか。あえてそれを認識させるために、音楽や役者の断末魔が必要だとしたら、それは冒頭に書いたカタストロフの表象行為の暴力性そのものとなってしまうのではないのだろうか。ここにおいて、ドゥルーズの『シネマ1※運動イメージ』と、『シネマ2※時間イメージ』の取り上げる映画群の境目に、第二次世界大戦があることは無関係ではない。この問題を解消するためには、うんざりするような説教臭さを感じる「想像可能性」を観客に期待することもまた、現代においては時代錯誤と言えよう。

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