ウンゲツィーファの『さなぎ』はズレていた。何もかもがズレていた。僕はホッとしていたと思う。おそらく、「僕の生きてる世界はたしかにこんな風だ」と感じたからだ。同時に、「僕たちの生きてる世界はたしかにこんな風だ」と感じたからだ。この二つの感情も、当然ズレている。
この上演は、時間と空間をいくつか織り込むように出来上がっている。主に二つの空間がある。まず、ワーキングホリデーで南の島にきている女の子たちの空間。もう一つはある日本の家族の空間。舞台には向かって左から二段ベット、テーブル、ソファが並び、その間を二つの空間に分けられている(ことになっている)演者達が行き来している。南の島の女の子の一人は家族の次男と恋愛関係にあり、彼らはラインでやり取りをしている。時間設定はある年の大晦日。南の島と日本の間では時差がある。南の島が年明けを迎える頃、日本はまだ12月31日の夜8時頃。時差はある意味、演劇の構造そのものだと言える。時間はズレているが、二つの空間は同じ時間を生きている(ことがラインのやり取りでも示される)。同じ時間に生きているのに時間がズレているというのは、劇内部の時間と劇の外の時間との関係性と全くのパラレルだ。
劇内部の時間は、南の島での年明けの瞬間から始まる。そして、日本での年明けの瞬間で終わる。ズレているものを一つに重ねるように『さなぎ』はできている。この「ズレの重なり」によって、劇は明かりを消した部屋のようなパーソナルさと、沢山の人間を一つに包み込むようなスケールの大きさを同時に獲得する。
時差でズレた二つの空間は、時に三つに分裂する。日本にいる家族のうちの誰かが外にいるときは、外の動きと家の中の動きが同時進行で進む。分裂は空間だけでなく時間においても起こる。家族の父親は離婚をしており、今は若い恋人(なんと息子の恋人の友人であることがのちに発覚する!)と暮らしているが、急に以前の妻とのやりとりが始まる。この時、妻を演じるのは南の島にいる中国育ちの女性を演じる役者(深道きてれつ)で、別の空間にいると想定されていた人が役柄を変えて、急にこちらの空間に闖入してくる形となる。劇の中では、少しずつ回想と思われるシーンが増えていくが、回想は回想とは明示されずに開始する。次男が恋人を父と長男に合わせる場面、南の島に旅立った直後の恋人と次男との遠距離でのやりとり。このあたりはまだ時間軸が特定できるが、父と若い恋人が子供を作るかどうかでいい争う場面になると、一体いつ起きたことなのか見当がつかなくなる。劇の中心的な時間である大晦日の直前なのか、それとももっと前に起きた出来事なのか、判別がつかない。この時間軸のはっきりしない出来事が、劇中で一番重たい、耐え難い体験となる。すでに二人の成人した子供を持つ(おそらく五十過ぎの)男と、三十歳になったばかりの子供と家族を持ちたい女。問題になるのはやはり「ズレ」だ。二人の間で生じたズレの軋みは、南の島で初日の出を見にドライブする女の子たちが険しい山道に迷い込んだ不安と同時に現れることで、劇的に強調される。更に、長男の妻が身ごもったというニュースを聞かされ、二人の間の子供の不在が際立つ。劇中でもっとも重たく演出される「ズレ」の出来事が、時間軸を明瞭にしないことで、痛みとして劇時間に偏在することになる。重なり合うことのできない人間の欲望。それが本作に流れる通奏低音である。
だからこそ、時間軸上でもっとも不整合な場面が直後に訪れることに意味がある。大晦日の夜、妻の懐妊を電話で知らされた長男は、タバコを吸いに外に行く。すると、タバコを一本くれないかと頼む女性が現れる。それは今南の島でドライブしているはずの女の子だ。彼女は実家に帰ってきていて、来年には海外に行くと話している。その話の内容は去年の彼女の状況のはずだ。 今は南国の島にいて、そこにいるはずもない、だが一年前にはそこにいたかもしれない存在。出会うはずのないものが出会うこと。一年というズレの中にいる二人の存在が重なること。繰り広げられるのは人生において意味を持ちそうもない取るに足らない会話だ。だが、「ズレ」の軋みが重みを持って現れた後で、時間軸が「ズレ」たまま重なる奇跡が産み落とされることは、この劇において決定的に重要だ。世界は何もかもがズレている。異なる意識と異なる時間と異なる空間が、重なり合わないまま同時に存在している。世界は一つのはずなのに、なぜ僕たち一人ひとりがバラバラの意識を持ってしまっているのか。わからないまま軋み続けている。僕たちは、そのズレが不意に重なる時を待ち続けている。そのことを、ありえないはずの時間の重なりでウンゲツィーファは示してみせる。異なるものが重なる時だけを、必死に、のんびりと、待ち焦がれていること。
「ズレが重なる」ということに関して、演者達の存在感に触れないわけにはいかない。彼ら・彼女らは役柄を与えられて演じていると誰もが思う。日常的に暮らしている人格と、演じられている人格が二重になっていて、普通に考えれば劇の間は後者が前面に出て、普段の人格は後ろに隠れるはずだ。ところが、『さなぎ』においては、演じる人格と演じられる人格が二重になっているとはどうしても思えない。演技とはわかっていても、日常を生きる人が自然と舞台の上で動いたり話したりしているのだと観客は直感する。それはもはや「演じている」のではない。ただ彼らは「生きている」。この感覚は、他の公演ではそうそう起きるものではない。「ズレがズレたまま重なる」という現象は、劇中の時間と空間の間だけ起きているのではなく、「劇」と「現実」の間にも生じているのだ。
世界は本当は独りよがりのものでしかない。劇で展開した物語が中国人の女性が見た夢である可能性を示唆して終わるように、全ての出来事は孤独な、個人的な体験である。一人ひとりの意識の中に、異なる時間と異なる空間が組み込まれている。劇中で複数の時間と空間が渾然一体となることによって、それぞれの〈僕〉の感覚にそうした複数性がなだれ込んでいることが示される。だから、この劇はとてもパーソナルな印象を観る者の中に呼び起こす。舞台上、スニーカーやぬいぐるみやレコード盤が物語とは関係なく無造作に結ばれた紐に引っかかっているのは、〈僕〉の意識の混沌をなぞっているからだ。そして、〈僕〉の世界の渾然一体の中で、他者と思われていた存在と重なる体験が不意打ちでやってくる。この不意打ちこそが人々が分有している「器」であり、〈僕〉が〈僕たち〉になる時の本当の共同性だ。一般的に区切られた時間と空間とは別の「器」の中で、〈僕たち〉は初めて「一つ」という感覚を思い出す。この「器」の広がりが、大きな普遍のイメージを観客に与えるだろう。「ズレ」しかない〈僕〉の世界と、「ズレ」が重なる〈僕たち〉の世界。〈僕〉が〈僕たち〉になるギリギリの状態の中を人は常に揺蕩い続けていると、この劇は教える。ウンゲツィーファはその状態を、「さなぎ」と呼ぶ。
(2019年2月10日19時、東中野、驢馬駱駝にて)
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