カテゴリー: 伏見瞬
馬はか弱い。
小学校の高学年の時、私は競馬に夢中だった。理由はよく覚えていない。1995年の秋、日曜昼の情報番組で天皇賞・秋の予想コーナーを偶然目にし、出演者があーだこーだ予想をしている様子にワクワクした記憶がある。そこから急激に興味を持つようになった。中学生に上がる前頃から音楽に夢中になり、馬への熱は冷めていくのだけれど、とにかく私は約二年間競馬のことばかり考えていた。過去のレースの記録映像を漁り… 続きを読む
(11月22日、早稲田どらま館)
とにもかくにも僕は老いるか死ななきゃいけない。大阪万博が始まる頃にはいくつになっているかなんて誰にも教えたくない。人は老いて、今まで成したことも虚しくなり、時間は痩せ細り、有り得たかもしれない死んだ可能性の束だけが重く太くなっていく。仕方ないものは仕方ないけど、嫌なものは嫌なのである。
三浦直之はずっと「死んだ青春」に命を捧げている。『いつだっ… 続きを読む
ワワフラミンゴは凄まじい。圧倒的に凄い。そうとしか言いようがない。まず、目的がわからない。劇を観ていても、その劇の後ろにあるものが見当たらない。多くの内実が含まれているという印象は一切覚えない。かといって、観光地の顔出しパネルのように後ろに回り込んだら薄っぺらというわけでもない。ワワフラミンゴの背後にあるのは、いわば全くの無である。「無」という、抽象的にしか捉えられない概念が突然具現化する。その驚… 続きを読む
撲殺。銃殺。爆殺。毒殺。キュイの『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』では、四種類の殺害パターンが見られる。そう、この劇は人が殺しまくり、殺されまくる演劇である。だが、ランダムに上演されているようにみられた四つの場面は登場人物の一人である青年の夢の中の話であることが、場面が反復されていくことによって判明する。夜の公園のホームレス殺し、バスジャック、大学での銃乱射、カフェでの毒混入、どの場面においても… 続きを読む
小春日和のなか、30年ほど時間が停まったような京浜東北線蕨駅南口のロータリーから左へほぼまっすぐに10分ほど歩くと、ゲッコーパレードの本拠地であり今回の公演場所、旧加藤家住宅がある。あまりにも一般的な住宅街の、あまりに一般的な一軒家。玄関で靴を脱ぎ、受付をすまし、座布団に座る。目の前には和室。白い布がしかれ、幾色にも絵の具が塗られている。小さい三脚が部屋の真ん中、右後ろには大きい三脚、左側にはシー… 続きを読む
「あぁ。恥ずか、恥ずかしい。何故こんな、無様な、、決して成りはしないと思っていた低俗な人間に成り下がっているのだろう・・・それもわたしのことをよくも知らない他人の前で・・・。いや、他人ではない人もいる・・・そいつらはもっとやっかいだ。隣近所や会社の連中、わたしの名前や普段の様子を知っていることは知っている、ただしそれは公的な場での「わたし」であって、もちろんある程度演じているものであって、大部分の… 続きを読む
KAAT 神奈川芸術劇場(11月11日)
日常的に人は、心に縛られている。身体は感情に弱い。なにかしらの感情、後悔だったり恐怖だったり自己嫌悪だったりと呼ばれるであろうものが働くことで眠れなくなったり、体の動きを制御できなくなったりする。私はこの前、歩きながら無意識にクソみたいな会社の同僚への呪詛を吐い続けていて、自分で引いた。
それでは、「心は存在しない」という断言は何を意味するのか。心がないのなら、… 続きを読む