ワワフラミンゴは凄まじい。圧倒的に凄い。そうとしか言いようがない。まず、目的がわからない。劇を観ていても、その劇の後ろにあるものが見当たらない。多くの内実が含まれているという印象は一切覚えない。かといって、観光地の顔出しパネルのように後ろに回り込んだら薄っぺらというわけでもない。ワワフラミンゴの背後にあるのは、いわば全くの無である。「無」という、抽象的にしか捉えられない概念が突然具現化する。その驚きは、他のどの演劇、いや、他の芸術様式でも感じられるものではない。ワワフラミンゴはあまりに唯一無二であり、どこを見渡しても比較する対象が浮かばないのである。
Belle and Sebastianの”She’s Losin It”(名曲!)が流れる中で始まる『脳みそ歩いてる』には、これといってストーリーはない。ただただ、会話が続いていくだけ。しかも、話をしている彼女達、彼達が何者なのかはほとんど明かされない。冒頭、二人の女性が立ち話をしているが、声を発していない。代わりに声を出すのは、舞台前方で客席とは逆向きに体育座りをしている別の女性二人だ。声と身振りが分裂したまま、『ジョーズ』を映画館で観に行った話などを調子外れにオーバーリアクションで延々と続けていく様子はかなり笑えるのだが、この分裂の演出が何かを表現しているわけではないし、途中からは声を発していない役者も普通に声を出し始める。その後も舞台に立つ女性4人、男性1人の役者のうちの数名が会話を数分交したかと思うと突然に会話が途切れ、別の役者の組み合わせで全く別の会話が始まる。この演劇で行われていることはそれだけだと言ってもいい。中盤も過ぎた頃に、役者の一人が脳みそのかぶり物をして歩いてくるというタイトル通りの展開があるわけだが、その登場以降も会話はつつがなく、調子外れに続いていく。
柔らかい雰囲気のなかでショートコントがひたすらに続いていくという印象を受ける人もいるかもしれない。だが、笑いが目的というわけでもない。いや、観客を笑わせようとはしているのだが、笑いが目的化することを周到に避けている。と同時に、「不条理」や「シュール」という言葉も回避しているというか、そうした言葉からこぼれ落ちるものだけで出来ている。全ての言説を交しながら成立しているような演劇なのだ(だからこそ批評が非常に書きにくい)。本当は「無」と言う言葉を使う事にも抵抗がある。当然ながら、ワワフラミンゴの劇の背後には、劇団の経験や、演劇の歴史の蓄積が含まれている。だが、その歴史性から作品を捕まえようとすると、するすると逃れてしまう。結果、とらえどころのなさと行き場のない笑いだけが観客の前に残る。かくも心地よい空っぽを、私は他に味わった事がないのである。
伏見 瞬
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