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撲殺。銃殺。爆殺。毒殺。キュイの『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』では、四種類の殺害パターンが見られる。そう、この劇は人が殺しまくり、殺されまくる演劇である。だが、ランダムに上演されているようにみられた四つの場面は登場人物の一人である青年の夢の中の話であることが、場面が反復されていくことによって判明する。夜の公園のホームレス殺し、バスジャック、大学での銃乱射、カフェでの毒混入、どの場面においてもは彼は殺人を止めるよう奮闘するが、必ず失敗する。繰り返される反復の中で、恐れ戸惑っていた青年は悪夢を終わらせる決意を固め、その姿は勇壮な様子を強めていく。

小説や詩でしか読まないような文学の匂いの感じる長ゼリフや悪意をフルスロットルで発揮していく感じは他の劇団の演劇にはなかなかない個性だし、反復をずらす事で笑いを生む芸や役者が役柄を客観視するようにト書きを読む(「バスジャック犯、乗客2を撃ち殺す」など)演出も利いてる。まるで割れた硝子のように、地面に細切れに張り巡らした板も、物語が放つバッドな雰囲気にマッチしている。後半の展開にもヒネりがあるし、全体を通して、非常に巧みな上演なのは間違いない。だが、私はどこかに違和感を抱えたまま会場を後にした。その理由は観劇から2週間経った現在でもイマイチ明確にならない。書きながら考え、考えながら書いている状態だ。

ひとついえることは、本作がゼロ年代を強く感じさせる作品だということだ。涼宮ハルヒシリーズの「エンドレスエイト」や『ひぐらしのなく頃に』を思わせる、いわゆる「ループもの」の構造を本作は持っている。反復からいかに抜け出すかというテーマの作品はゼロ年代に流行し、その時代の刻印が刻まれている。途中で流れるゆらゆら帝国の『できない』(2007年)も出口なしの日常を歌っており、曲構造としても反復を強調した楽曲である。ならば、2017年にゼロ年代的を作品を作り上演することのミスマッチが違和感の原因か。それもあるだろうが、それだけではない。

戯曲を書いた綾門優季は本作について以下のようにコメントしている。

ある日、突然、見知らぬ人に理解不能な経緯で殺される話に、わかりやすい説明は要りません。
嫌われることも、わけがわからないと言われることも恐れずに。
なるべく気分を害するように、始めから意図して設計します。
現実の塊で、観客を殴打するつもりで。

この世には、決して受け入れられない人がいるということ。
決して近寄ってはいけない場所があるということ。

忘れたいのに忘れられない公演に出来るよう、頑張ります。

綾門の言葉に従えば、今回の公演は忘れがたい印象を観るものに残すよう意図されている。だが、劇を観ていると、人が死ぬ事に対するとりかえしのつかなさが次第に薄れていく感覚を覚える。全ては夢の中、あるいは虚構の中ものとしてカッコに入れて、安心して劇を観ている自分に気付くのだ。気分を害することなく、楽しみながらループから抜け出そうとする展開を観ている。この劇が次第に理解させることは、誰も死んでいないということだ。殺人が起きれば起こるほど、「死んでいない」という状態が明確になる。暴力が、徐々に希薄になっていく。安心して楽しんで、安心して忘れることができる。今回の上演には、舞台で起こっている事が観る者の現実へとはみ出してくることのない、観る者の意識が殴られるようなことのない清潔さがまとわりついていた。綾門の意図とは裏腹な、無菌の時空間。それが違和感の原因である。

ただ、本作の中で一度殴打されたと感じた瞬間があった。劇内でループが繰り返されるにつれて、ループから抜け出そうとする青年は、次第に今起きている事態をおざなりに考えるようになる。何故なら、今この瞬間は何度も何度も繰り返される出来事の一つに過ぎないからだ。青年は目的のために手段を選ばなくなる。毒を盛る女を事前に監禁したり、あるいはループの速度を速めるために自らが殺人を進んで犯したりする。もう何のためらいも発生しない。被害者だったはずの男が、加害者になっていくこと。この逆転には少なからず衝撃を受けた。加害行為に罪の意識はなく、目的のために全てが正当化されている。だが、たとえ全てが夢だろうと、殺される者が感じるであろう不条理ややりきれなさを、観る者は理解してしまう。加害者の痛みも被害者の痛みも、自分のものとして抱いてしまう。希薄化した暴力を眺めるときの安心感が、不意にやぶけた一瞬だった。

こうした虚構の裂け目が、劇全体において機能していれば、観客が受け取るものも相当異なっていただろう。数えたらキュイの劇を観るのも今回で七度目だ。私が知る限り、もっともっと強烈な殴打を、彼らは打ち込めるはずだ。

伏見 瞬