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表題の二つの作品、一つは舞台、もう一つは映画についてから考えたことを少し述べたい。『地獄谷…』の作者には、そんな意図は少しもないかもしれないが、これが少々意地の悪い解釈になることを許してほしい。
この11月、KAAT 神奈川芸術劇場、JR桜木町駅から徒歩15分ほどの、ほとんど横浜の一等地の一角と言ってもいい劇場に足を運んだのは、1年ほど前に戯曲を読んだときに、この作品の特異性というのがよくわからなかったいくつかの問題を確認するためだ。これはいつの時代のどのような人たちを扱った作品なのだろうか。
会場にはアンティークのようによく作り込まれた田舎の温泉宿、意図して設計された粗雑さがしっかりとブラックボックスの中に設えられ、ショーウィンドウの展示入れ替えのように玄関、客間、脱衣所、温泉の四景がくるくると舞台の上を回る。温泉で裸体をさらすのは、小人症の男、頭と手ばかり大きないびつな人形、目の見えない男、口のきけない男、老婆、そして色っぽいというよりもむしろたくましいと形容したくなる豊満な肉体の女たちだ。その裸にはポルノグラフィックな色気も、商業化された誘惑の気配もまったく見当たらない。
なぜ、この作品をオーギュスト・ロダンの伝記映画に連想したのか。それは、この裸体を彫刻のように感じたからだ。第四の壁を破ることのない、ただ見るだけの舞台であっても、それは十分、観客にそれが「生身」であることを訴える豊かな情報量を持ち合わせる。舞台は顔よりも身体が目立つ場所だ。生身であるだけで舞台の視覚情報は映像よりも、美術館の彫刻と同じくらいには豊かだ。ドワイヨンの映画の中で「真に迫った肉体は顔よりも雄弁だ」と言ってロダンが、仕上がった彫刻の頭を切り落とすシーンがある。裸体は、一種の顔ではなく体に観客の視点を向けさせる演出なのだ。
話を戻そう。これはいつの、どこの話なのか。戯曲には「日本全国に「地獄谷」と名のつく場所があります」と紹介されるト書きがある。「地獄」という言葉で地方都市を表しているのだ。都市という人工の生活域に自然を対峙させたとき、その中間にやってくるのが地方都市だとしてみよう。そこには理性によって自らを飼いならす前の人間が暮らしている。小人症の男、百福を盲目の男、松尾が猫と勘違いして口の中で擬音を鳴らしながら近づいていくと、百福が言葉を発し、松尾が驚くというシーンがある。動物と、言語によって統治された人間の中間に置かれた彼ら、あるいは私たちの置かれた状況をこのシーンはよく表している。この宿の環境は人間の存在を獣との境が曖昧な場所に据える。
『地獄谷…』の回転舞台が表象する地獄とは、仏教の地獄だ。夜になるとある者は眠り、ある者は声をあげて嘆き、ある者は性行為にふける。光と言葉を失って、自身の存在証明を動物のような身振りに仮託する生き物の姿を見ながら、百福の息子、一郎、おそらく客席の私たちに最も近い存在として舞台を経巡る。畜生を経て、人間を経て、地獄を経て涅槃に至ろうとする。これはショーケースされた私たちの地獄めぐりなのだ。
ト書きでは「いくが三助に覆いかぶさって」とだけ書かれている性交の場面。本番の舞台では女性が男性に対して、ずっと猛々しく襲い掛かっているように見える。作品が提示する裸体のいびつさは、貧相な男性とたくましい女性という形にここで収斂される。
ロダンを引き合いに出したのは、言語と数字によって合理性を高めていくのではない別の方向の人工性、ロマン主義によって感情と自然を模倣する方向について言及したかったからだ。ロダンは劇中で「私の師は樹だ」と話している。
百福の人形芝居にも注目しなければならない。頭と手ばかり大きい、老人でも子どもでもないいびつな人形。人形芝居とは彼と人形との、セクシュアルな戯れだ。それは母親が子どもを可愛がる仕草にも見える。芝居を見て怖気をおぼえた芸妓の文枝は「あれはあの人の子どもなのよ」と言う。百福が表象するのは、一方で貧相な男性であり、子どもを産むことができる母親に嫉妬する創造主としての芸術家だ。その点でこの芝居は彫刻的であるという話をしたい。
一郎は舞台を経巡った後、涅槃に達することができるだろうか。それは経典が指し示す迷いのない世界だ。地獄が畜生に人間を引き寄せる世界だとすれば、涅槃は人間をエラーのない機械に引き寄せる世界、人工性の局地なのだ。私たちが、迷い、ミスを犯し、ときに感情に振り回されるのは、私たちが設計されていない生身の自然の身体を持っているからだ。
KAATでこの公演を見た後、この芝居がヨーロッパを巡業するところを想像した。そして、今年5月のハンブルク演劇祭で上演されたBrett Baileyの”Sanctuary”に思いを馳せた。それは、ゴミ山で暮らしていたり、強姦されて腕を切り取られたりした移民たちに扮した俳優がショーウィンドウのように展示されたインスタレーション作品だ。ここでは舞台は回らないが、観客が一つ一つのブースを巡回する。公演の資料はネット上でも見ることができる。私は本番の舞台を見ることは叶わなかったが、あるいはこのようにして『地獄谷…』は見世物として別の言葉を使う国に受け入れられるのかもしれない。近代の亡霊が、効率よく稼ぎ、効率よく消費しろと広告を打ち出す時、私たちはそれに抗うために無視された生身の身体に目を向ける必要がある。これは先進国共通の問題だ。
だからこそ、私たちはこの作品を横浜のブラックボックスで見ることが可能なのだろう。その連想をこのセリフが許してくれる。

「国中が気狂い、血に飢え出したいま、百福の容姿と人形芝居はとくに求められました。人々はいま惨めさを求めているのです。圧倒的な惨めさを!」

イトウモ