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2017年11月に小劇場運動のメッカ、「早稲田小劇場どらま館」にて「新訳 ゴドーを待ちながら」の2回目となるリーディング公演が行われた。訳者は岡室美奈子、演出家は6月の初回リーディング公演に引き続き宮沢章夫である。
内容は「ラジカルガジベリビンバシステム」でいとうせいこう、竹中直人らと日本における最初期のシュールコントを磨いた宮沢ならではの非常に洗練されたコントのような「ゴドー」だった気がする。ウラジーミルとエストラゴンの永遠に噛み合わない会話しかり、ポゾーとその2人のトリオコントのような丁々発止の掛け合いなど単純にばかばかしくて笑えた。
思うに「ゴドー」とはこのように滑稽であるべきではないか。そもそもベケットが考えた簡単な筋自体がほとんどシュールコントのようなのだ。この作品に限らないが「なんでだよ!」とツッコミを入れたくなるようなそんな作品がベケットには多い。ゴドー来ないのかよ、来いよ!みたいな。それにも関わらずこの作品はゴドー=神という解釈に代表されるようにどこか重々しい雰囲気をまとって上演されるのが常だった。宮沢はそうした解釈をはねのけるかのように、突然芝居の途中にラップを挿入したり、主人公達がナレーション(リーディング公演なのでト書きを読むナレーターが舞台上にいる)に抱きついたり、ラッキーがとんでもないダンスを披露したりして、ツッコミどころ満載の「ゴドー」を作り上げた。

特に2回のリーディング公演で際立ったのは、ポゾーの奴隷であるラッキーや、ゴドーが来ないことを知らせる少年といった今までの「ゴドー」では目立つことのなかった役が前景化して見えたことである。特にラッキーについてはほとんど黙っているだけの役柄であるはずなのに、過去2回の公演とも極めて個性的な役者が起用されていたこともあって本来ならば仕えるはずのポゾーの存在感をもしのぐ圧倒的な存在感を見せていた。
私は最前列に座って「ゴドー」を鑑賞していたのだが、ラッキーの表情は常に何を考えているか分からないほど神秘的で、そして異常な量の汗をかいていた……(あとから話を聞くとそれは立っているときの体勢が中腰気味で辛かったかららしい)しかもその汗の量のまま突然狂ったように体を飛び跳ねらせ「ダンス」を披露するのだから、最前で見ていたものにとってそのインパクトはものすごい。舞台上には汗が飛び散り、こちらに降ってくるのではないかと思ったほどだ。

なぜこのように普段は影を潜めている役柄が前景化したのだろうか。
それは既に語ったようにその演じる役者が個性的だからであろう。しかしそれだけで果たして、寡黙なラッキーという役が際立つものなのだろうか。もしかするとこれらリーディング公演において役者はラッキーを演じていたというより、ラッキーという型と対話していたという方が適切なのではないか。もちろんその対話には媒介として演出家が入ることになる。役者とラッキーとの対話の結果がこの際立つ役柄を生み出したのであろう。そしてもっと言えば役者が持つあるポテンシャルとでもいうものが、役によって引き出されたともいうべき事態だ。
思えばこの公演において役者たちは決して演じているという素振りを見せていなかった。6月のアフタートークの話になってしまい恐縮だが、その時に宮沢は「とにかく役者が若く、結果として若々しく新しい「ゴドー」が出来上がった」と言った。ウラジーミルとエストラゴンは若い役者たちの「若さ」というポテンシャルを引き出し、結果として若々しい「ゴドー」が生み出されたのだ。
宮沢は演出家としてその役の型を用いて役者自身の中にある面白さを引き出そうとする。あの軽妙な会話もウラジーミルとエストラゴンのものなのか、役者自身のものなのか分からなくなってしまうほどだ。

そして忘れてはならないのが、その役の型を決定する言葉、セリフを作り出す岡室の新訳のみずみずしさであろう。「最近の言葉であるが、しかし若者におもねくような言葉ではない」と宮沢が評する岡室の訳は確かに、古風な演劇的言い回しではなく、テレビドラマ研究者としての一面も持つ岡室らしく現代のごくありふれた日常会話のようで、しかし決して話す人を限定しない間口の広い訳になっている。

いずれにせよ岡室による確かな言葉と、宮沢の役者の個性を引き出す演出が上手く調和し、個性的な役者たちも相まって今までにない新しい「ゴドー」の誕生に立ち会えたと思う。この「新訳 ゴドーを待ちながら」はまた何回かのリーディング公演を重ねていつか本公演を迎えることになるだろう。その度に「ゴドー」によって引き出される役者の個性を私は待っている。

谷頭和希