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演劇活性化団体uni『食べてしまいたいほど』

※「ちょいとそこまでプロジェクト②練馬区・高松編」記録冊子より転載

https://www.uni-theatre.com/choisoko-tamamashu/

2017年11月11日(土)〜12日(日)
@みやもとファーム とうふ房

《出演》 高橋 由佳、トヨザワトモコ、矢部 祥太、粕谷 知世(プレス)、山本 和穂、新藤 秀将
《構成・演出》 阿部 健一*
《戯曲協力》 塩田 将也(ホロロッカ)
《主催》 演劇活性化団体uni
《協力》 みやもとファーム、公益財団法人練馬区環境まちづくり公社

[1] 演劇版コミュニティアート

 「アートでまちおこし」を背景にしたアートプロジェクトは「瀬戸内国際芸術祭」や「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の成功を契機に、二〇一〇年代を通じて社会的な知名度を向上させていったことは記憶に新しい。地域再生やコミュニティの再活性化に価値を見出す視点は、九十年代末にニコラ・ブリオーによって提唱された「関係性の美学」に後押しされるかたちで、二〇〇〇年代以後の無視しえない芸術のムーブメントをかたちづくってきた。 
 作品から関係性へ。コミュニティアートは、作品そのものよりも、それが出力される過程で生じていく人や場所との新たな協働性/共同性を重視する。だからこそ、人の協働から新たな共同体がリクリエイトされていく環境を意図的に仕掛けていくことがアートになる。そうしたアートの流れと演劇は当然、無関係ではない。
 演劇活性化団体uniが練馬区で展開する「ちょいとそこまでプロジェクト」はまさに地道な調査や人とのコミュニケーションのプロセスをこそ「演劇」とする、演劇版コミュニティアートと言えるように思う。しかし、そもそも演劇は「集団」を作らなければはじまらない。そこで組織されていく関係性が作品を豊かにしていくという点で、演劇とコミュニティアートは親和性が高く、演劇版コミュニティアートという言い方は冗長な同語反復に過ぎないのではないか?
 この指摘は当たらない。次から次へと新しい流行アイテムであるかのように作品がパッケージングされ消費されていくトーキョー小劇場のマーケットでは、実際に地域のなかへと飛び込んで長期的な関わりを持ちながらコミュニティの関係性を更新していく、そうした営みは価値を持ちにくく、その実践を後押しするような言説も出てきにくいからだ。ゆえに、演劇と地域がインタラクティブに良好な関係を築き、さらには地域との関わりが「新しい演劇」のオルタナティブを生み出すことができるのか? という問題提起が演劇批評の側から出されることもほとんどないのが現状だ。
 だからこそ、「関係性が構築されるプロセス」にフォーカスするuniの活動は貴重であり、そこに光を当てる必要があると僕は思う。地域に密着して展開されるuniの活動はトーキョー小劇場のメインストリームから外れてはいるが、しかしそれがゆえに演劇のパラダイムを再編成する大きな可能性を宿しているからだ。

[2] 虚構のふるまいから、関係性のマッサージへ

演劇活性化団体uni HPより

 この秋(二〇一七)に上演された『食べてしまいたいほど』はuniが高松に関わった一年間をプレゼンする経過報告であり、なおかつ高松の歴史と文化を掘り起こして作品化するものであった。その意味で本作こそ正統な「まちの演劇」と呼びたくなりもするのだが、しかし、僕はこれが「まちの演劇」であると素直には思えなかった。むしろその上演の雰囲気からすれば「ムラの演劇」と言ったほうがいいかもしれない。つまり僕はこれを新しい「ムラ芝居」なのではないかと思ったのだ。
 都営大江戸線の「練馬春日町駅」で下車、会場となる「みやもとファーム」に着くと、駕籠を運ぶ俳優たちのうしろについて高松地区をぐるりとまわるプレパフォーマンスが行われる。二列に並んでぞろぞろ歩く一行に、道端の人たちは面食らった顔。新築モデルハウスの受付をする男性の戸惑いや、直売所のおばちゃんの「天気になってよかったね」といった声掛け、子どもたちの「行ったことあるところまでね」とついてくる姿に、高松の新旧入り交じる住民の「顔」ぶれが浮かび上がる。このまちにとっての半分「異物」である「uni」の姿がパフォーマンスされていく。そして、僕にはこの奇妙な「まちあるき」が彼らの試行錯誤する演劇のジャンルを示す上で、非常に重要なものであるように思えた。なぜか。
 この「まちあるき」によって、uniの上演する演劇が完結した「作品」ではなく、まちとの関係性が場に織り込まれていくプロセスそのものであることが示されるからだ。行列を先導する俳優たちは「ファンタジー」と言っていい、歴史的な実在性を持たないシミュラクル(見せかけ)の衣装/意匠をまとって歩く。アニメのなかから抜け出してきたような疑似日本的な風情の衣装/意匠に八十年代小劇場の残滓を見て、鼻白む人もあるだろう。ところが、このまちあるきにおいては、彼らの衣装/意匠が妙な異他性をかもしだし、住人とのあいだに微妙かつ独特の緊張感を作り出している。
 例えば〈ここ〉が劇場のなかであったならば、その衣装/意匠は現実との接点を覆い隠すことで劇場と現実を分断するように機能するだろう(現実を忘れる一夜の夢)。そこに他者的な異物感は生じない。また、秋葉原あたりに置かれれば「コスプレ」になるだろうし、新宿に置かれれば「大学生のイベント」として消化される。高円寺だったらパチンコ屋のコマーシャルとして自然なものになるだろう(高円寺では実際にパチンコ屋を広告するちんどん屋がいる)。
 しかし、それが「トーキョー」と微妙な距離感を保つ高松という土地に置かれると、「異物」ではないが、かといって「異物」でなくはない、ゆえに土地の人達に完全に排除されるわけではないが、奇異なまなざしは招き寄せ、多彩なリアクションを引き出していく反射材として働き始める。つまり彼らは高松地区の土着性に「トーキョー」的な虚構のふるまいを持ち込むことで、ヨソモノ的な他者性を挿入する。俳優たちの特に何の説明もなくファンタジーな衣装を着て歩き、各所で儀式的に法螺貝をふく―トーキョー小劇場的な―根拠なきシミュラクルの身振りは、こと高松においては安定したコミュニティにある種のゆらぎを生じさせるパフォーマンスとして機能していくのだ。それはそのままuniの実践がそうした実践であること、ファンタジーの回路から土地の関係性をマッサージする「ねりあるき」であることを象徴している(※)。

[3] 「トーキョ/ムラ」を混乱させる

 だが、彼らはいたずらに「トーキョー」的なるものを高松に持ち込んだだけではない。上演でも語られるのだが、二〇〇六年に環状八号線が通った影響で、平安時代に創建されたという高松八幡宮が道路を挟んで向こう側に引き離されたらしい。この分断をひとつの象徴として読むならば、高松は村落共同体が解体され切ってはいないが、再開発による共同体の解体も進んでいる「半-共同体」的な土地であり、これを「村」ではなく「ムラ」と呼んでみるなら、高松地区とは〈土地の歴史=リアル〉に根を持つ村落共同体と、土地から切り離され〈虚構=シミュラクル〉を生きる糧にするトーキョーとの狭間で揺れる「ムラ」なのだ。「トーキョー」的な意匠を持ち込むのと同時に、地元の人への聞き取りから土地の生きた歴史を発掘していくuniの身振りの二重性は、そのまま「トーキョー/ムラ」の二重性を体現するものである。そこで彼らは「/」を顕在化させ、それを揺るがし新たな「場」の創発へと方向付ける-新しいムラ芝居の実践者となる。
 「uni/高松」の、あるいは「トーキョー/ムラ」のあいだに引かれた分割線が混乱していく感覚。それは例えば、観客としてやってきたはずが、ねりあるきにおいてはパフォーマーの一味となる逆転現象や、会場となる「多目的納屋」―もともと農園の納屋として使われていた建物を包みこむようにして新しく小屋が増築され小屋イン納屋となったスペース―のねじれ、劇中で(多分)高松の特産物を紹介するコーナーとして挿入され、観客と俳優が一緒になって黙々とうどんを食べる謎の時間―劇を見に来たはずなのに!―によって、繰り返し喚起される。なにより舞台になる場所を取り囲む四面客席が地元の観客の顔ぶれを可視化することで、上演と観客のあいだの緊張感そのもの―uniと高松の緊張感そのもの―が上演に組み込まれ、メタ演劇的にuniの試行錯誤のプロセスを明かしていく。

 もしかしたら、それらは意図されたものではなく「自然にそうなった」のかもしれない。実際、『食べてしまいたいほど』を上演作品単体で観ると粗が目立つ、美学的・方法的洗練を欠いた作品に思われる。しかし、uniが高松に入り込み持続的な関わりを持とうとしなければ、「うち/そと」「リアル/シミュラクル」「ムラ/トーキョー」の分割線が揺るがされ、コミュニティに新たな関係の磁場が息づくことはなかった。それは明らかに、TUTAYAでレンタルされるDVDと演劇作品を等価にするマーケットの論理とは異なる「演劇」の可能性だ。
 共同体の歴史へとアプローチしながら、その「記憶=ムラ」と「現在=トーキョー」が交渉する場を「演劇」として組織する彼らの活動は、トーキョー小劇場ではない「なにか」へと踏み出す一歩となる。僕には小劇場演劇の内部では見えなくなってしまうこうした「小さな演劇」の地道な活動に、何かしらポジティブな足場を築くあゆみが感じられてならない。もちろん、この「一歩」が実際にどういう「ポジティブさ」の足場であるのかは、きちんと考えられなくてはならないが、その点においてもuniの活動は絶好のサンプルとなってくれる。これから少なくとも三年間は継続されるという演劇活性化団体uniの高松での活動を注視していきたい。


※高松地区も東京都内であるが、そういう行政区画とは別に、心理的区画の単位で高松は「東京」と距離を持つと理解してほしい。

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