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 平昌オリンピックも終わり、次は2020年の東京オリンピックだと思う人も多いかもしれない。しかし、3/9から開催される身体障碍者(肢体不自由、脳性麻痺、視覚障害、知的障害)を対象としたパラリンピックが開催されることを意識している人もまた多いかもしれない。その狭間の3/1~3/4まで、東京芸術劇場シアターイーストで公演されている烏丸ストロークロックの『まほろばの景』を観劇してきた。

 烏丸ストロークロックは1999年、柳沼昭徳(劇作・演出)を中心として近畿大学文芸学部芸術学科演劇・芸能専攻に在籍中のメンバーで設立され、以降、京都市を拠点に活動を行ってきた劇団だ。近年では第60回岸田國士戯曲賞に2015年に上演した『新・内山』でノミネートしている。ノミネート時に戯曲を呼んだ際には、身近な出来事をどのようにしたら誠実に社会の出来事と結びつけることができるのかという難問への試作に見えた。今回の作品『まほろばの景』では、2017年7月の宮城県仙台市での滞在制作を始めとして上演された複数の短編を重ねる形で、長編を立ち上げていく手法で創作されたらしい。※1

 開場早々、いわゆるゼロ場ということになるのだが、白い霧にも、降りそそぐ雪にも見える半透明の垂れ幕の間を縫って、施設職員の福村(小濱昭博)が登山道具を背負って彷徨っている。そこに山伏(小菅紘史)が現れ、客席に背を向け、お経を読みだす。「~ゆえに」を繰り返しながら、根源的なベクトルを持つ問いが螺旋状に読み上げられていく。そして、お経を読み上げると、山伏は福村に、なぜここにいるのかと問う。福村は施設で面倒を見ていた人がいなくなり、探しているという。どれくらい前のことだ。半年前。それはもう死んでいるだろう。という会話がなされる。しかし、それでも福村は探すことをやめない。亡骸を探しているというのでもいうのだろうか。
 場面は変わり、劇中では明言されないが、おそらく東日本大震災時の仙台に時と場所は移る。そこで福村は都市ガスと電気が止められている中で、プロパンガス?でお湯を沸かし、見ず知らずの多くの人にお湯を提供していた。その中の女性(角谷明子)が、子宮筋腫によって子宮を切除していることを福村に話す。お腹には手術跡の線があるという。そして、その傷跡を見せてほしいと福村は言う。女性は夫(復興作業で忙しい)にも見せたことがないという。そういったやり取りがある中で、「泥と雪、雪と泥」という声が聞こえてくる。それは綺麗なものと汚いものというように聞こえるかもしれないし、泥に降り積もる雪が徐々に泥へと変わっていく姿かもしれない。または、震災時の光景を象徴する「泥」と「雪」なのかもしれない。
 場面は変わり、大阪で福村が旧友(澤雅展)と再会をする場面になる。そこでお互いの近況報告をしていく中で、故郷の仙台のことや、福村がボランティアで行っている熊本についての話題が出る。その会話を割って入るかのようにおばちゃん(松尾恵美)が意味不明な内容で執拗に声をかけてくる。その光景はどこかコミカルだ。大阪にはああいう頭のおかしいやつがたくさんいると、見てみないことにする旧友と会話しながらも福村はそのおばちゃんとも会話を始める。そんな福村に苛つきだす旧友は、ボランティアの前に自分の家族を大事にして、「生きろ」と福村に突きつける。
 場面は変わり、福村は自分の担当であった障碍を持つ(足と、おそらく知的障害)カズヨシ(澤雅展)の姉(阪本麻紀)に会いに行く。そこで、唐突にカズヨシの姉から一緒に仙台に行こうと提案される。福村は再三、カズヨシの意見を聞かないとと言うのだが、カズヨシ自身は戒名が書かれている経典で遊んでいる。カズヨシの姉はそんなカズヨシを無視して、「ほら、そう言ってるやんか」と言って、カズヨシも賛成していることに話を持っていく。その度毎に福村がいやいや言ってないでしょとツッこむ。このやり取りが何どか繰り返される。その光景はどこかコミカルだ。この光景を見ながら、私にはある社会的な出来事が想起された。それは、1/30に宮城県の60代の女性が起こした国家賠償請求訴訟の話だ。彼女は15歳の時に、知的障碍者や精神障碍者らへの強制不妊手術を認めた旧優生保護法(1948~96年)の下、強制的に不妊手術を受けた。同じような被害に遭った方は記録上、約2万5千人にも上るとされ、このうち約1万6500人については、本人の同意なく行われている。※2 優生保護法は、優生手術を「生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術」と決めていて、それ以外の方法は禁じていたにもかかわらず、子宮の摘出が女性障碍者に実施され、しかもこの違法行為は黙認されていた。※3 劇中で、東日本大震災時の宮城県の仙台で、子宮を切除した女性は筋腫によるものだと本人は言っていた。しかし、本当にそうなのだろうか。今、私がしようとしている解釈は、歪んだ一つの解釈に過ぎないし、この作品の持つ豊かさを損なう可能性もあるだろう。しかし、私には、大阪で無視されるおばちゃんや、意見を聞かれても答えることができないカズヨシの姿を見ていく中で、この作品がどこかでこの宮城県の女性や、他の多くの被害者と結びついている気がしてならないのだ。そして、作品の終盤、福村は水たまりの中で、「悔しいなぁ」と繰り返しながら、のたうちまわる。それは何か敵がいて、それへの呪詛でもなく、攻撃でもなく、絶対的な悪に対する怒りでもない。ただただ、世界がそうあることに対しての悔しさなのだ。自分自身の無力さに対する悔しさだともいえる。その悔しさの中で体を投げ出し、のたうちまわる。そこで、中川裕貴のチェロの重低音が鳴り響く中、山伏たちが現れる。山伏の杖だったはずの棒が、仙台の神楽の時に使う刀に変わったように見え、山伏が神楽を踊る。そして、お経を唱え始める。薄暗い中、強烈な照明もところどころに差し込んでいる。立ち上がる。安全装置なしで危うい剥き出しの足場を登っていく。「カズヨシ!カズヨシ!」と名前を呼ぶ声がする。なにかとなにかを結びつけようとしている磁場がそこにはある。そこで繋がろうとするのは、オリンピックとパラリンピックかもしれないし、生者と死者、山伏と神楽、関西と東北かもしれない。その力が働く磁場を私は過去にどこかで見ていた気がする。そこでは「トーヤ!トーヤ!」という声があった。「手を離さないで!」という声もする。それは烏丸ストロークロックと同じく関西を拠点としていて、昨年末に解散した維新派のジャンジャンオペラと通じるもののように私には聞こえた。もちろん、やっていることは全く違う。彼らは日本とアジアを繋げようとしていた。しかし、そこに働く「なにかとなにかを結びつけようとする磁場」という点において、私にはこの二つの劇団が無関係であるとは決して思うことはできなかった。

※1 https://rohmtheatrekyoto.jp/features/7602/
※2 https://mainichi.jp/articles/20180130/k00/00m/040/126000c
※3 http://www.soshiren.org/yuseihogo_toha.html

 

高尾
映画と演劇を観ることが多いです。 現在はラジオドラマ、テレビドラマ、映画のシナリオを書いていきたいと思っています。 よろしくお願いします。 witter→@Square_Zappa 批評家養成ギブス三期生 / 2016年度戯曲セミナー卒業生