日時:2018年3月1日(木)〜4日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
作・演出:柳沼昭徳
音楽 :中川裕貴
出演:阪本麻紀 澤雅展 角谷明子 小菅紘史(第七劇場)
小濱昭博(劇団 短距離男道ミサイル)松尾恵美
[WEB] http://www.karasuma69.org
烏丸ストロークロック『まほろばの景』を見た。
烏丸ストロークロックは京都を拠点に活動する劇団。というわけなので、僕は京都にいたときに烏丸ストロークロックを見ている。そして衝撃を受けている。2008年にアトリエ劇研で上演された『六川の兄妹』だ。2005年から10年まで続く「漂白の家」シリーズの2作目だ。当時、「メモ」と呼ばれる短編の試作/思索を1年や2年といった単位で繰り返し、積みかさねていった結果として長編を上演するという創作スタイルをとっていたことからも窺い知れるように、彼らは一貫して「共同体の喪失」をテーマにして活動を展開していたと記憶しているし、今回の『まほろばの景』は、そうした「共同体」への問いをより熟成発酵させた、つまりはよりどうしたらいいのかわからなくなるほどに根源的な秘密へと迫ったドキュメントである。
いまからちょうど10年前に僕はこんなことを書いている。
いつまでも忘れられない作品に出会うということがあります。それはほとんど事件として体験される出来事ですが、柳沼さんが烏丸ストロークロックで作・演出した『六川の兄妹』は僕にとってまさにそういう作品でした。びっくりしちゃったわけです。(柳沼さんに直接おはなしを伺うと、どうも僕の勘違いらしいのですが)共同体がなぜ必要なのか、そしてそれはどうしたら可能なのかを証言形式で描き切り、劇構造を二転三転し観客を不気味な場所へと引き連れる……衝撃的な作品でした。
びっくりしちゃっている。このときの僕はびっくりしちゃっていて、なににびっくりしちゃったかというと、およそ社会的な秩序を維持する上では禁止されている「言葉」を言っちゃってる、というか、その秘密を暴いちゃっている、ということにびっくりしちゃったわけです。
手元に台本がないので、もしかしたらちょっと間違っている可能性もあるのだけれど、『六川の兄妹』はとあるニュータウンで殺人事件が起こり、探偵(?)がその事件を解決すべく住人から被害者にまつわる証言を聴取していく……というドラマトゥルギーでもって進行していく。それから最終的に住人全員で「彼」を殺害していた(らしい)ということが明らかにされ、殺害された彼(か彼女)を埋める場面でyammyさんという歌手の叫びにも似た声が、まるで死に際の動物が鳴き声をあげるように空間を劈き切り裂き、この無味乾燥な歴史性を欠如させたニュータウンの共同体が、実は血の生贄によって生成されたのだという、その秘密の現場が観客に突きつけられる。
しかし、この作品はそれだけで終わらない。こうした証言の報告それ自体が、ある宗教の啓発セミナーであったことが、劇の最後で明らかにされるのである。つまり、この共同体が生成されるために必要とされた「秘密」は、「演劇」という形式が隠蔽してしまうのだ、という自己言及。君たちの見たもの、それは「嘘」なんですよ、「フィクション」なんですよというアイロニー。私たちは演劇という代理=表象の芸術形式において、二重に「秘密」を隠蔽してしまうのである。がゆえに−逆説的に−演劇はかくも「不気味」なのだ。
と、すごく長くなっちゃったけど、そういう劇に出会い、僕は震えました。長くなっちゃったのは、そうした「共同体の秘密」へとアプローチする烏丸ストロークロックの主題系は、『まほろばの景』でも健在である、どころか、さらなる探求がなされていたからに他なりません。
はっきりいって、僕は物語を記憶する能力が欠如しているので、あらすじをふくめた上演の雰囲気を知りたい方は、高尾さんの劇評を参考にしてください。いわゆるネタバレありですが、よくまとまっております。
高尾さんのレビュー
http://scenario.episode.jp/gekihyo/20180302111523
そのドラマを非常に簡潔にまとめると、失踪した「カズヨシ」を探して福村が現実であるのかどうか定かではない「まほろば」ではない、「まぼろし」の記憶を旅していき、自らが抱えた「傷」と直面する、というもの。「謎を解決するミステリー」という点で『六川の兄妹』とドラマトゥルギーのレベルではほぼ同じと言ってよいが、しかし、探求されるのはニュータウンが隠蔽した「歴史」よりも壮大な領野。神道や山岳信仰、あるいはアニミズムや柳田國男的な祖先崇拝といった「日本」という共同体の輪郭を作り出す死生観・歴史観・社会観、つまりは伝統の総体が、いかなる理由において生成されてきたのか? を烏丸ストロークロックは「問題化」するからだ。
もちろん、そこには2011年に起きた突発的なカタストロフィー、つまりは「3.11」が創作の背景を成しているということは出来るし、本人が語っているとおり、2017年に行われた仙台での滞在制作から始まった作品であるのだから、東日本大震災が直接的なモチーフになっているのは間違いない。だが問題は、ではなぜ東北から遠く離れた京都を拠点にする烏丸ストロークロックが、当事者性の隘路を超えて「3.11」の中心部へと入り込むようにして身を投じたのか? ということだ。
観劇を終え、僕はこう考えた。それは「3.11」がまさに自然と社会の関係性を問い直す出来事だったからではないか。「3.11」は過剰に自意識を発達させたホモ・サピエンスの「人間中心主義」、つまりは自然を有用な資源として搾取する近代社会の自然観になんらかの「ひび」を入れる出来事だった。自然を有用な「資源」として管理する近代社会では、人間が豊かで幸福な生活を営む「ユートピア」を建設するために自然があるんだという「素材=自然」のイデオロギーが支配的になる。しかし、そこには過去と現在を結びつける「神話」が欠落している。生者が「死者」となり、また「死者」の魂が現世へと戻ってくる生命の循環を為す場が自然だ、という「生命=自然」の含意はなく、「死者」たちの記憶=魂が「共同体」にリアリティを与える−柳田國男的な−先祖崇拝の神話も喪失される。いまや生者は「死者」を弔い祀る術を持たず、生命を生い茂らせる力へと融合した「死者」から新たな「生」のエネルギーを受け取ることもできない孤独な根無し草となってしまった。つまり、「故郷」を喪失した。「3.11」は、そうした事情を逆照射する出来事であり、だからこそ「共同体の喪失」に私たちの「生きにくさ」の根源をみてとり格闘する烏丸ストロークロックの関心を招き寄せたのではないだろうか。
しかし、烏丸ストロークロックの魅力は、「だから自然を回復せねばならない」というエコロジスト的主張に単純化することなく、むしろ「自然」との関係性の回復を願い乞いながらも、そこに安住する地はないことを「問題化」する点にある。つまり、彼らの演劇は「主張の演劇」(作家の自意識)ではないし、かといって社会的な人間関係を冷静に「記述」することで「現在形」を批判的に描き出す(社会主義リアリズム)ものでもない。あくまでも生成の始原へと遡行しながらも、その始原に潜む暴力性をどうしたって露呈させてしまう「問題劇」なのだ。
*
福村が捜索する「カズヨシ」は、実は知的障害を抱えている。その彼を探す道の途上で、福村は山伏に出会う。ところが彼らはすでに死者であり、みずからの「罪−後ろめたさ−」を祓い清めるために山を登り歩くのだという。それから33年にわたる時間を経ることで、いずれ意識も消滅して山の神になるという。そこで福村はカズヨシの姉と出会った記憶の「まぼろし」を見せられる。カズヨシはまだ失踪しておらず、失踪のきっかけになった場面が福村の口から語られていく。いわく、カズヨシは諏訪神社の前で「イー」と声を立てて、頑としてその場を動かなくなったから、彼の気を逸らそうと「セミ」についての冗談を言った。だからカズヨシは失踪してしまったのだと福村は証言する。それが、実は真っ赤な嘘であることは山伏に誘われさらに山を登り、「父」から教わった神楽を踊れと命じられる劇の終盤で明らかになる。
福村に「過去のまぼろし」をみせる山伏たちは、彼の記憶の中の人物であると同時に亡霊である。亡霊となった父が福村に神楽を踊らせるというのは、福村にとっては拭いきれない「過去」に憑かれる体験であることは言を俟たない。「過去」に憑かれ踊らされる彼は、「イー」という声がカズヨシという個体性を超えて神的なるものへと変質し、同時に空間が生と死が混在した「幽界」へと変貌するなか、「カズヨシ」が失踪した真実の記憶へと遡行する。「カズヨシ」は冗談を言ったから失踪したわけではもちろんなく、諏訪神社の前で「イー」と言うばかりでどうやっても動こうとしない彼を置いて施設に戻った隙に失踪したのだった。つまり、福村はカズヨシを見捨てた。そこで「傷」が刻まれた。だから、彼は半年も前に失踪した「カズヨシ」を探さずにはいられない。彼が彼自身の「現在」を回復するためには、「カズヨシ」にもう一度会う必要があるからだ。
しかし、それは叶わない。叶わないから「父」から伝承された神楽を上手く踊ることが出来ない。確かに劇の序盤でも、熊本の被災地で上手く神楽を踊れなかったよというエピソードが語られるが、それは単に忘れていたから踊れなかったということで、「自然」との関係が喪失されたことを象徴している。だが亡霊の父と出会い「自然」との関係を回復させる契機となるはずの「伝承」の場面でも彼は踊れないのだ。なぜか?
傷を抱えているからだ。傷を抱えた福村は「母なる自然」と合一する絶対的幸福の境地へと還ることが出来ない。つまり、神楽を踊り記憶=自然=始原をどうしてもその身に宿すことが出来ない。舞台上に溢れ出す水で服を濡らしながらのたうちまわり、「悔しいなぁ」と何度も口にするシーンは象徴的だ。多様なシンボルの系−津波・汚染水・忘れたい記憶・生命・羊水−を喚び出す「水」はこんこんと湧き出る。人間はその溢れ出す「水」の流れを制御することも、ましてや抗うことも出来ない。過去は変えられず、「傷」は癒やされない。
だが、本作の結論は、先に述べたように「だから自然を……」ではない。「傷」を癒そう=水で身体を満たそう、というベクトルへ向かうことはない。舞台上に吊るされていた紗幕の布が山伏の手で左右に分かたれ、舞台上には擬似的なプロセニアムが作られる。そして、その奥には工事現場の足場のように組まれた台がそびえ立ち、福村は落っこちそうになりながらも頂上にたどり着き、真正面を見据えながら言うのだ。
「わたしがいる。山がある。」
「わたし」は「山」ではない。そして、「わたし」は山のように「ある」のではなく「いる」。人間は人間であり、自然は自然だ。その境界線がはっきりと引かれ、上演は「傷」が癒やされることもなく、かといって「自然」が拒否されることもない、宙ぶらりんの状態で幕を閉じる(いや閉じる幕はないんだけど)。
だが、その結論は単に「人間は自然には戻れないよね」という至極単純なメッセージなのだろうか? 僕にはそうは思われなかった。ここで、吊り下がる紗幕の布が左右にまとめられプロセニアムが前景化する点に着目すれば、「わたしがいる。山がある。」と自然と人間が分かたれたところから、「傷」が癒えぬと深く了解された地点から、そこから「劇」が始まることを告げているからだ。つまり、共同体の伝統に根付いた〈芸能〉が生成する秘密は、この「傷」にある。この「傷」から「私たち」の文化的な営みは始まり「まほろば=故郷」が夢見られるようになる……という、まさにそのこと自体を烏丸ストロークロックは「問題化」する。
烏丸ストロークロックは「漂白の家シリーズ」で、共同体の喪失を問題にして、その生成の秘密を探った。そして、『まほろばの景』にて、「まほろば=美しい日本の故郷」は何度も繰り返し回帰してくる不気味なもの−傷−との関係から生じてくることを露呈させた。それは、希望でも絶望でもない。また、「傷」を隠蔽するのが「まほろば」であるのか、回復させるのが「まほろば」であるのか、その答えもない。その答えのなさが、『六川の兄妹』から変わらぬ烏丸ストロークロックの「倫理」であると、僕には思えてならない。
あるいはこういう風に言いたくもなる。「わたしがいる。山がある。」という語は、安定した世界の秩序をいつも常に揺らし続ける〈潜在現実〉である。安定した世界の深層には「潜在」する無数の「傷」が隠されている。それに触れることで、わたしたちの現実は脅かされ、世界は謎を孕んだ暗号へと姿を変える。「わたしがいる。山がある。」と宣告された世界は、もう「わたしがいる」だけの世界(人間中心主義)には戻れず、また「山がある」だけの世界(アニミズム)にも戻れない。『まほろばの景』は観客にそうした問いを突きつけ、その問いから組み替えられた現実へと観客の知覚−身体を変性させてしまう。「秘密」は世界を魔術的に書き換える。そこに、本作の言い知れぬ不気味さと魅力が潜んでいる。
*
もっともっと書けることはあるはずだが、ぼくの記憶力は鳥より悪いので、何度も肯首したはずの様々な事がらがまったく思い出せない! 戯曲を読んで思いだしたいところだが、販売はしておらず。とにかく10年たっても烏丸ストロークロックと柳沼昭徳は深くて広大な世界への妄想力と想像力の射程を持っていることを体感できたのは僥倖だったし、久方ぶりの「観劇の歓び」をもたらしてくれた。なにより、微温的な表現に留まることなく、現実の襞をめくるようにして世界を汲み尽くし得ぬ「謎」−「他者」−へと変貌させる姿勢は、まったくもって貴重であると断言して差し支えない。
また、個人的に知っているという事情もあり、福村を演じた小濱さんの演技には、感動を禁じ得なかった。感動、という言葉は当たらないかもしれない。彼は仙台を拠点に活動する俳優だが、「震災直後、僕たち若手演劇人は、なにもできなかった」(HPより)という問題意識をもとに集まった仲間と「劇団短距離男道ミサイル」を結成し、「仙台に、東北に、日本に活力を注入するため、我々は服を脱ぎ続けます」という決意のもとに「祝祭劇」を引っさげて東北ツアーを敢行している(そして、比喩ではなく服を脱ぎ続けている)。その彼が口にする「震災」の記憶は、観客とともに彼自身の「現在」を解体させ続けてしまう言葉のはずだ。それを聞くというのは聞こえない言葉を「聴く」体験であると感じられるし、それが本作の強度につながっているとぼくは確信している。
上演は身体を想像力の媒体に、「現在」を正当化する時間を解体して無意識に沈む記憶の時間を顕在化させる。つまり、見ることも聞くことも出来ない歴史を「いま」へと継起させる。そこで身体とは歴史のプールであり、私たちの「いま」が忘却させる他者を想起させ、「歴史」を共に生きる倫理にリアリティを与える。言葉と身体と記憶が交差する演劇の力が十二分に発揮された『まほろばの景』が、まさに故郷喪失した「孤」が集う「トーキョー」で上演されたことの意義は、とりわけ大きいのではないだろうか。
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