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 関優花個展「うまく話せなくなる」をrusu「ナオナカムラ」に見に行って、これは言葉にしなければならないと思い書かれるこの感想には特に結論はないが、彼女の作品の少しばかりの紹介になればと思う。

https://drive.google.com/file/d/1TpOpPj281bL_Atvsb32e1uCaXZA01sbc/view

 彼女はこれまで歌舞伎町24時間マラソンをしたりチョコレートの塊を自分と同じ体重になるまで舐め続けたり、グループ展(かな)開催中に太陽へ向かって走り続けたりしてたみたいにとってもフィジカルでハートフルなパフォーマンス・アーティスト。今回実際にパフォーマンスされたのは13-21時の個展開催中ひたすら「話し続ける」というもの。僕が見たのは30分ほどなので「うまく話せなくなる」の全部はもちろんわからないが、少なくともその時はグーグルマップで検索したどこかの風景の事物ひとつひとつを超微細に言語化し続ける、そういうことをやっていた。
 ギャラリーの奥へ入ると椅子に座った彼女。足元にはお茶。鑑賞者と目を合わせることはなく、パソコンの画面を見ながら風景描写を語り続ける。はたして「うまく話せなくなる」というタイトルがあまりにも長時間に渡って喋り続けると「喋り続けることができなくなる」という意味なのか、それとも言葉にし続けることで「言葉にしえないものに出会っていくプロセスが現れる」ことを意味するのか、もしくはもっと個人史的・美術史的なコンテクストがあるのかわからない。しかしともかくここでは一年前に仙台で観劇した短編一人芝居『「愛の配分」と「たまたまの孤独」について』(作/演出:小森隆之)を思わせるエロティックな私秘性が濃密な磁場を創り出していた。
 その短編について僕は当時こんな感想を寄せていた。

彼女と相対する観客は、とても不思議な迷い路に入り込んでしまった気分になる。おおよそ対話不能に見える彼女とのあいだには炉端の石ころを見ても取り立ててそれと関係しようとは思わないように、コミュニケーションの回路が何もかも遮断されているように思える。わたしとの関係の回路は開いていかず、石をずっと見てはいられないように、次第に退屈さが忍び寄ってくる。ところが、その関係性が強要されない関係はとても自由で、彼女とのあいだにはあらゆるコミュニケーションへ向けた回路が開かれているようにも感じられる。そういうアンビバレントな回路が観客と彼女のあいだに開かれる。……鳥居さんはプライベートな内容を、誰の反応もうかがわない、誰に合わせて喋ることもしないで、淡々とゆっくりと自分の速度で言葉を紡いでいく。そうして語られる言葉に触れていると、なにか彼女そのものの実質に触れているような気になってくる。たとえばハイパースローモーションの映像から、物体の官能的で柔らかな質感が浮かび上がってくるみたいに、鳥居さんの《スローナラティブ》が彼女の中の官能的でセンシティブな領域を浮き立たせていくように感じられる。

 あらゆる情報を検索可能なビッグデータの一部へと還元していくグーグルのアーキテクチャは、「どこにでもある風景」からノルタルジックな響きを剥ぎ取って、時空間の制約を超えてアクセス可能な「情報化された風景」に変化させた。それは固有の記憶や身体性といったローカルなものをデータベースに登録された情報に還元していくことを意味するわけだが、しかし関はそうして「情報化された風景」に官能的な負荷をかける。つまり、その風景をネットメディアから「声」というメディアにトランスレートすることからエロティックな情報へと置換していくのである。ゆえに、なのか、さらに、なのか、ともかく彼女が鑑賞者と目を合わせないということが、ここでは客観的な事物として身体を「展示する」という文脈においてではなく、プライベートな親密さを生じさせるための選択として機能している。彼女の声と目線が情報を官能化する。だからぼくらは彼女そのものの実質に触れてしまうような、彼女の身体に隠された「秘密の小部屋」に迷い込んでしまったような、そんな気分になってくるのだ。
 かなり長くなるけれど、その時に録音した言葉の一部を大まかな精度ではあるが書き起こしてみる。

「細い電線がいくつかあって、その電線の本数なんですけど電線何本あるかなって思って……28本くらいあるんじゃないかなって思うんですけど多分違くて、電線の向こうには空が見えるんですよね、で、その日、は、その日はおそらく晴れなんですけど、大部分が雲に覆われているようなそんな空で、雲があるんですけどその雲は白くて、でもえっと白いんですけど灰色がかっているような部分もあったりして、それで、どっからどこまでが一つの雲だって分かるような雲ではなくて、その境界が曖昧な雲が広がっているようなそんな空なんですけど、で、青い部分も見えるんですよね。でもその青っていうのはかなり白味がかっていて、さっき言った交通標識の青とはまた違う青なんですよね。それでえとその青い交通標識なんですけど、その青っていうのはもっと深い、深くはっきりした青をしていて、その標識の青を地にして左を向いた矢印が書かれている。そんな標識があるわけなんですけど、その標識は白いポールにつながっていて白いポールにつながっていて、えと,さっき言った2階建ての灰色の建物、黒い屋根を持っている2階建ての建物のまわりには植物がうわってるよって話なんですけど、その植物、その植物、のと同じ高さくらいに、その……青い交通標識、があるんですよね、それでえと、その木が、いろいろうわっているわけですけど、細い木とか背の低い木とかあって、それでその木の葉っぱの色なんですけど、もっと深めの緑だとか、そのもっと赤みかかったようなそんな色をしていたり、黄色みかかったようなそんな色をしていたりするんですよね。その灰色の2階建てがあって、その2階建ての建物には玄関があって、その玄関部分にはそこには影が落ちていて、何があるのかってよくわからなくて、ドアがあるんだろうなとかインターホンがあるんだろうなとか思うんですけど、それでえとそのなんというか……植物がうわっているわけなんですが、その表札があるんですよね、その2階建ての住居の玄関部分の知覚には小さい塀が立っていて、その塀は90度に曲がっていてL字型の塀で、その表札は濃いグレーをしていて、その表札が二文字で漢字でその家に住んでいるヒトの名字とかが書いてるんだろうなって想像がつくんですけど、なんて書いてあるかってここからは読めなくて、そのL字型の塀は少し濡れているような濃い茶色をした部分と、乾いた白い茶色の部分があって…………」

 この部分でまず注目すべきは、色に関する言葉が何度も重ねられていくというところにある。ぼくは絵画に対する知識をほぼ持ち合わせていないのだけど、少なくともそこでは「絵画」の表象が支持体を持たない状態でむき出しの触感によって描かれているように感じられる。それはまったく連想的にではあるが、ハイナー・ミュラーの「画の描写」というテクストを想い起こさせる。発語された言葉は定着する支持体を持たないが、しかし観客とパフォーマーのあいだに触感的なイメージを立ち上げていく。そうした行為に、これはとてもよく似ているのだ。
 そして描かれていく触感的なイメージを可能にするメディウムは、ロラン・バルトが〈きめ〉と呼ぶ声に独自の誘惑的な物資性に置かれているというのはまず間違いない。

《きめ》とは、歌う声における、書く手における、演奏する肢体における身体である。私が音楽の《きめ》を知覚し、この《きめ》に理論的な価値を与えるとしても……その評価は、多分、個人的なものであろう。なぜなら、私は、歌う、あるいは、演奏する男女の身体と私との関係に耳を傾けようと決意しているからである。そして、この関係はエロティックなものであるが、全然《主観的》ではないからである(耳を傾けるのは、私の中の、心理的《主体》ではない。主体が希望する悦楽は主体を強めはしない――表現はしない――。それどころか、それを失うのだ)。(ロラン・バルト「声のきめ」)

 《きめ》の質感は定められた意味のコードに主体を同一化させる情緒的な表現に宿ることはない。むしろそうした情緒的な感情移入によって抑圧されたエクリチュールの見る夢であり、その物質性においてその都度ごとに新たな意味を産出していくエロティックな官能である。関優花はまさに声の《きめ》が持つ官能性からわたしたちをイメージの受胎へと誘惑する。オフィシャルな場ではネガティブな価値を持つであろう「うまく話せなくなる」ことは、ここで新たな意味―官能的な意味―を生み出していくためのポテンシャルへと反転する。〈どこにでもある風景〉は、どこにでもある性をそのままに〈どこにでもないわけではない風景〉へと、つまりは「三丁目の夕日」に沈む夢や希望やあたたかい人情へノスタルジックに浸ってみせる癒やしのふるさとに退行していくのではない、無関係化したその場所をみずからの〈身ぶり〉において私秘的な経験へと導く方法を提示するのである。
 結論はないと言いながら、ひとまずの結論めいたことを言ってしまった。しかしぼくに「私秘的」と感じられた彼女の官能的なイメージは、感覚されたリアリティを準拠点にしながらもプライベートに閉じることのないある種の公共圏を想像させる〈身ぶり〉へとつながる回路を持つというところまで言えればいいのだが、ひとまずのところ言葉足らずにもつれる舌に身を任せるままこのつたない感想の幕引きとしよう。