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KAAT 神奈川芸術劇場(11月11日)

日常的に人は、心に縛られている。身体は感情に弱い。なにかしらの感情、後悔だったり恐怖だったり自己嫌悪だったりと呼ばれるであろうものが働くことで眠れなくなったり、体の動きを制御できなくなったりする。私はこの前、歩きながら無意識にクソみたいな会社の同僚への呪詛を吐い続けていて、自分で引いた。
それでは、「心は存在しない」という断言は何を意味するのか。心がないのなら、私たちの身体の自由を奪う感情というものは一体、なんなのか。

庭劇団ペニノの『地獄谷温泉 無明ノ宿』の劇中で、心眼が開くよう願っていると語る盲目の男に、小人の老人は言う。「心眼で、いったい何を見るというだね?」。そして、こう呟く。「心というものはね、ないんですよ」。2016年度の岸田戯曲賞を受賞した本作、戯曲を読んだ時点で期待は高まっていたが、目の前で演じられると想像以上の衝撃があった。

舞台は富山県の山奥の温泉宿。宿の主からの手紙の依頼で、人形芝居を行うため東京からやってきた老齢の父子。しかし、宿には主人など存在せず、老婆や盲目の青年など近隣の住民が勝手に利用する場となっている。仕方なく一泊することになった父子と宿に集う人々の一夜を描いたこの作品には、因果関係で結びつけられるような事件は存在しない。会話を交わし、温泉に入り、部屋でくつろぐ様子が淡々と演じられる時間は長い。

だが、この上演には蓄積される不気味ななにかがある。もちろん、人形遣いを演じる小人症のマメ山田の、独特の風貌が醸し出すものが大きい。とはいえ、彼の存在一つで全てが不気味さを帯びるわけではもちろんない。マメ山田の存在の効果を最大限に活かしているものが二つ。舞台装置と裸体だ。本作の舞台となる場所は玄関、寝室、脱衣所、風呂場なのだが、4つの舞台が回転式のセットが廻ることによって切り替わる。そのセットは、温泉宿のオーラを余すことなく再現した精巧なものだ。風呂場からは湯気が立ちのぼっている。そして、脱衣所では俳優達は素っ裸になり、局部を堂々とさらけだす。女優達も同様だ。混浴の温泉で、つまり舞台の上で、人間がさも自然に裸で立っている。この精巧な舞台装置と剥き出しの身体が、不気味さを生み出している。

文章による描写が量を増すとリアリティが失われると語ったのはレッシングの『ラオコーン』だが、膨大な描写が産み出す非リアリティ性を逆手に取り、幽玄の存在の幻想性へと置き換えることに成功したのが泉鏡花だ。もちろん、その幻想性は書き言葉の上で起こりうる現象であり、舞台芸術にそのまま適応できるものではない。しかし、精巧すぎる舞台装置は、詳細すぎるエクリチュール同様、リアリティとは異質の、鏡花的と形容するにふさわしい幻想性を生み出す。10月に上演されたマレビトの会による連作演劇『福島を上演する』が何もない舞台に電車やカフェをリアルに幻視させるのとは対照的に、『地獄谷温泉 無明ノ宿』においては、リアリスティックな舞台によってアンリアルな異世界が現前化する。

裸体も、同様の幻想現前化装置だ。あまりにリアルな肉体が舞台に現われることで、日常(公衆の面前で局部をさらしたら警察に通報されるだろう)とは違う世界がそこにあることを確実に意識させる。もし、それが見せ物としての裸体であったら安定した位置づけができてしまうだろうが、その裸体はストーリーの必然に則っており、日常を突き破る存在としてあからさまに現れるわけではない。公共的には不自然であるにもかかわらず、演劇の約束事のなかでは裸体は自然のことなのだ。日常/演劇のコンテクストのズレが、裸を、日常/非日常の二分法では処理し切れない、「生きている幽霊」とでも言うべきリアルな幻想性を生む装置足ることを可能にする。セットが勢いをつけて回転を始めた時に、目が眩むようなめまいを覚えたのは、舞台と裸体にすでに魔術をかけられていたせいだ。

夜中に突如行われる人形舞台とそれを演じる父子は盲目の男の希望を打ち砕き、ある男女に子を授ける媒介となる。少なくとも観客がそう思うように想像力を刺激する。上演のあわいに漂う異形の幻想性は、心と呼ばれるものの幻想性を指し示すようだ。性的交渉をはじめとするコミュニケーションにおいて、人それぞれに内在するような心は存在しない。そんなものを追い求めても、見えるのは暗闇だけ。『地獄谷温泉無明ノ宿』は、心が存在しないということを、観客が納得するだけの強い説得力を有する。では「心が存在しない」ということを納得する観客の心は一体何なのか。私たちの中には、感情や心としか呼びようのない何かが確かにあるではないか。

ここで、思い当たる。心は単数では捉えられないのではないかと。心身二元論という言葉は、人間の心と体の関係性を表そうとするときに使われるものだが、心と体は別か、あるいは一緒かという問いは、実は重要ではない。問題は、心が単数か複数かという問題である。人は心の流れを単数的にしか捉えられない。たとえ複雑な心的動きを見出したとしても、それはある統合体として感じられる。オーケストラでいくつもの楽器が鳴っていても、まとまった一つの曲として認識できるように。だが、実際には、心は楽音的に表せられない自然音、自然的なノイズの集合体のようなものではないだろうか。まったく関係性を持たない音が、勝手に鳴らされているような、中心をもたないカオス。「心が存在しない」ということは、心的状態における中心性のなさを示している。
演劇を観て「心が存在しない」ことを直感的に納得した観客の心も、心的なフィールドに浮かんだ一つのノイズに過ぎない。その音はすぐに別のノイズにかき消される。人が心をコントロールしたいとしても、できることは、ノイズが絶えず現れるということ、それがまったく整理のついてない騒音であることを認識するくらいしかない。そして、かろうじてノイズを一つの流れとして整理できたものを、人は「物語」と呼ぶ。物語が崩れる契機は、いつ、どこにでも潜んでいる。『地獄谷温泉 無明ノ宿』に流れる不気味さは、物語を崩壊させんとするノイズ達の気配だ。その意味で、本作は人の心の写し絵であり、上演を観て起きた衝撃は、見えるはずのない心の鏡像を、目の前に感じたからだろう。

『地獄谷温泉 無明ノ宿』はセットの老朽化のため、この後のフランスでの上演を最後に永遠に葬られるという。ノイズと同じように、ノイズの鏡もすぐに消える。現われては消えるものを、そのつど追いかけるのは何故だろう。その理由がよくわからないまま、次の庭劇団ペニノの上演にも、きっと足を運ぶだろう。

伏見 瞬