今更言うまでもないが、インターネット上に書き込まれたすべての言葉はゴミに劣る。こいつらには音も匂いも味もない。文字記号だけの貧相な連中であり、夜の埼京線の電車内に放たれた黄ばんだゲロより価値がない。物質的な存在、つまり眼球を動かし、指先を操り、めしを食い、小便をして、ふとんの上で横になる人間(もしくは文字を操れるその他の物質)の存在が張り付くことではじめてこいつらは価値を持つ。それは自転車に対する補助輪のようなもので、単体で存在していてもなんの価値もないのだ。そんな当たり前にすぎる事実を忘れて、インターネットは調子に乗っている。ということをウェブシステムに駆使されているぼくらも忘れている。全く、ゴミのような状況である。いや、この言い方はゴミに失礼だろう。兎にも角にも、庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』の記録をここに残しておくので、このゴミ記事を読んでみんな猛省してほしい。この上演は、徹頭徹尾物質的であり、神秘と想像力は常に物質と物質との遭遇の中にしか生じ得ないことを観るものに体感させる。
ペニノの上演の特徴といっていい、精巧な舞台装置。『蛸入道忘却の儀』はいわゆる物語を捨て去ることで、舞台装置自体を劇の主役に据え置いた。森下スタジオで受付をすませた観客は、まず劇場とは別のスタジオへ誘導され、そこで木で彫られた蛸型の置物が祀られているのに気づきつつ、ドーナツ型のお札に名前を書くようスタッフから指示される。
後に劇場に入ると、そこに貸しスタジオを思わせる視覚要素は一切存在しない。目に入る全ては、寺。部屋の真ん中には八本の柱で支えたれた炉。木板で覆われた屋根と床、四方は障子(蛸型にくり抜かれている)に囲まれている。入り口でオレンジの本と鈴、もしくは拍子木を渡される。本は経典であり、上演は全て儀式。窓は締め切られ、文字通りの密教状態。鈴と拍子木は自由に使っていいらしい。蛸を崇める、その場限りの宗教。お経(のパロディ)を八人の演者たちが繰り返し唱える。時にはハーモニーをつけて唱える。やがて炉に火が灯され、名前を呼ばれながらお札が燃やされていく。密封された部屋の温度はどんどん上昇する。それと比例するかのように、演者たちは運動量を増やしていき、打楽器、弦楽器、エレキベース、ディジリドゥなどを奏でながら踊る。観客も鈴と拍子木を動かして音で反応する。
16部に分かれた儀式は視覚、聴覚刺激はもちろん、火を燃やすことによる嗅覚刺激、そして温度感覚刺激を参加者に与える。演者と観客が一体になったわけでなく、客はあくまで客であるにもかかわらず、共通の体験にその場の全員が投げ込まれる。身体と呼ばれる物質が物質を通して反応しあい、酩酊に導かれる様はまさに密教儀式であるのだが、この体験で宗教に目覚めるほど人間は馬鹿素直になれないだろう。蛸を信仰しようと本気で考えるようになる類の儀式ではない。だが、この極めて即物的な意味(とにかく場が暑いのだ)で不快な物質的体験は、神秘を人に教える。エセ宗教だとしても、何かしらの崇高な畏怖が生じ得る。それはリアリティの現前に対して一片のスキも許さない舞台装置と、汗を背中にしたたらしながらもんどりうつ演者たちの存在の物質性によるものだ。僕らは物質の強さを甘受することではじめて、宗教性に触れることができる。どこまでも胡散臭く、その実もっとも誠実な1時間45分。庭劇団ペニノの徹底に、偉そうにふんぞかえっている「情報」をひっくり返して底に突き落とす力を見ることは全くおかしなことじゃない。むしろそう感じないほうがおかしいぞ。猛省しよう。
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