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(11月22日、早稲田どらま館)

 

とにもかくにも僕は老いるか死ななきゃいけない。大阪万博が始まる頃にはいくつになっているかなんて誰にも教えたくない。人は老いて、今まで成したことも虚しくなり、時間は痩せ細り、有り得たかもしれない死んだ可能性の束だけが重く太くなっていく。仕方ないものは仕方ないけど、嫌なものは嫌なのである。

 

三浦直之はずっと「死んだ青春」に命を捧げている。『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校』、通称「いつ高シリーズ」にはお化けも登場するが、そもそも舞台となるあの学校自体がお化けの学校なのは誰もが知っている。「いつ高」においてはいくつもの出会いが受け入れられていくが、高校生とは出会いを受け入れられない生き物である。彼らは弱くて自分勝手なくせに何もかも知っている気でいるから、「私」が揺すぶられる体験、つまり「出会い」を一番恐れている。だから彼らは「出会い」が来ないように人の目を気にして、かっこ悪いことを愛し、いじめを続ける。「いつ高」における「出会い」は、青春が死んだ後に気づくものだ。高校には「出会い」など存在しない。そこにある「出会い」は全てお化けだ。「いつ高シリーズ」が高校演劇のルールに則って作られているのは、「出会い」を恐れる人間に潰されていく人間に、息のできる場所を提供するためだ。それは「死んだ青春」の重さを知っている人間にしかできない行為である。

 

「いつ高シリーズ」の新作について書こうと思ったのに、もう書きたいことを書いてしまった。困ったな。あ、そういえば今回はいつ高「本がまくらじゃ冬眠できない」は図書館が舞台で、図書館は学校の中の数少ない「出会い」のある場所だ。僕は中学三年生の時に図書館でウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』に出会って、息の仕方を覚えた。あの頃みたいに友達だと思ってた人間から嫌われることも今は少なくなったし、ひどい恥ずかしさと痛みを与えるニキビもほとんど消えた。年をとるのはほとんどいいことだらけだ。だけど年をとることは嫌で仕方ない。どっちを向いても透明な地獄に見える時、舞台の上だけが鮮やかな物体だ。篠崎大吾が白シャツの中に着てるプリント入りのTシャツ(サモハンキンポー?)や、端田新菜の通り過ぎるほどよく通る声だけに色がある。

 

「いつ高シリーズ」はどんどん若返っていっている。同時にどんどん年を取っている。それは三浦直之が自らにとっての青春(のお化け)ではなく、今高校生が生きる青春(のお化け)を描くことに力点を変えたからだ。「本がまくらじゃ冬眠できない」では、サニーデイ・サービスやハイロウズは流れない。『第七官界彷徨』と「きよしこの夜」。そこにあるのは特定の時代によらない言葉や歌。今の「いつ高」は、距離を置いて「出会い」をまなざしている。そのまなざしを可能にするのは、老いることによってはじめて手に入る若さだ。僕は「老い」や「死んだ可能性」と出会うことを、恐れずにいたいと思う。

 

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(伏見 瞬
東京生まれ。10代からバンド活動・作詞作曲など音楽中心に生きてきたが、次第に言語芸術全般に興味があることに気づき、物書きの世界へ。好きな小説家はチェーホフ、映画作家はリヴェット、音楽家はスピッツとメルツバウ。演劇に興味を持つきっかけとなった人物は寺山修司と平田オリザ。)