「あぁ。恥ずか、恥ずかしい。何故こんな、無様な、、決して成りはしないと思っていた低俗な人間に成り下がっているのだろう・・・それもわたしのことをよくも知らない他人の前で・・・。いや、他人ではない人もいる・・・そいつらはもっとやっかいだ。隣近所や会社の連中、わたしの名前や普段の様子を知っていることは知っている、ただしそれは公的な場での「わたし」であって、もちろんある程度演じているものであって、大部分のわたしを隠しながら生活している場での「わたし」を、やつらは知っているに過ぎない。なのに、わたしはもっとも知られたくない、自分でも知りたくなかった「わたし」を、やつらの前で曝している・・・・。あぁ。屈辱だ。上司の話に適度に乗り、ゴミ出しの時にはおとなりさんと笑顔で挨拶を交わし、そうやって節度ある態度で築いてきたものが、この瞬間に・・崩れ・・・。けれども、あいつらだって多かれ少なかれ、同じような醜さを持っているはずだ。わたしだけのはずがない。みんな隠しながら、際々の安定を保っているにすぎない。なんでぼくはこうも不安定を露呈させてしまうんだ。不平等だ。ちくしょう、これでは子供の頃と、屈辱的な子供時代と変わらないじゃないか・・・。努力してきたはずじゃなかったのか。なぜ、いかにも低俗なあいつらにできることが、器用に隠すことが、おれにはできないんだ・・・。不平等だ。あぁ、だけどぼくのせいにされてしまうんだ。みんな恥ずかしい部分を持っている。なのに、なんで、ぼくひとりが、こんなに恥ずかしい思いをしなくちゃならいんだ。あいつらも恥ずかしいことをしてる点では一緒なのに、なんでぼくだけがこんなに恥ずかしいんだ。あぁ。あ。あ。あはは。はは。笑えてきた。ははは。はははh。。。・・・あ、あぁ。」
城山羊の会『相談者たち』は、リビングで深刻な、だからこそ滑稽に見える離婚話をする夫婦の会話からはじまる。娘とその彼氏、さらには別の訳ありカップルがあわられ状況は混沌へと向かう。登場人物達が、劇のなかで人様にはみせられない恥部を曝す。そんな劇を成り立たせているものは、人前で演じることは恥さらしであるという事実だ。
『ハッピーアワー』などで知られる映画監督、濱口竜介は著書『カメラの前で演じること』のなかでこのように綴る。
演じる際に「恥を捨てる」ということは即ち「彼女は私ではない」と断じることだ。このとき、演者と役柄は切り分けられてしまう。そこでは演技にとって本質的なパラドクスは生きられない。目指されているのは、あくまで「彼女は私ではない、かつ、彼女は私でしかない」というこの不可能な両立を実践することだ。「自分が自分のまま、別の何かになる」と言ってもよい。それは当然起こり得ないのだが、万に一つ起こり得るとしたら、それはたった一つの場所において起こる。演者が「最も深い恥」に出会う場だ。社会の目ではなく、ただ自分自身による吟味がなされる場だ。
演技という恥さらしは「彼女(彼)はわたしではない」という想定を自らに与えることで容易く実行できる。しかし、「彼女(彼)はわたしでしかない」を引き受けてこそ、本質的な演技となる。「彼女(彼)はわたしでしかない」というテーゼは本来、どんな稚拙な演技にもつきまとうものだ。稚拙さから抜け出るには「恥」を引き受けるしかない。そして、恥を引き受けるということは、人間が生きることの本質である。恥の感じ方は人それぞれであるものの、羞恥心を一切持たないということは有り得ない。他者がいるという条件において、恥は常に存在する。他者がいてはじめて、孤独が生まれるように。その意味で、恥は社会的なものであるより以前に、孤独と密に結びついた個人的なものである。
『相談者たち』は、第三者に対して恥が開示される構造の連鎖の上において成り立っている。父の不貞を娘に告げる母、恋人とのいちゃつきを父に見られそうになる娘、同じ果物屋でみやげを買ってきてしまった二人の男、恋人の不貞をそこにいる全員に聞かせる男。こうした恥の連鎖は、演技をしているそれぞれの人間、その演技を成り立たせている演劇そのものにもつながっている。演劇とはとどのつまりなにかのフリをして遊ぶ「ごっこ」でしかない。何故、私たちは大人にもなって、この世界で「ごっこ」を続けているのか。人間が生きることは「恥」を引き受けることだからだ。この生には恥がつきまとう。他人にできることができないこと、いい年して若い女性に恋してラインでスタンプを送りまくってしまうこと、自己紹介すること、涙を人にみられること、人前に立つこと。こうした全てと関係のない人間の生はない。
演技者は、積極的に恥と戯れる。演技とは、社会性より前にある個人的な恥を前衛で受けて立つ「恥のアヴァンギャルド」だ。冒頭に書いたような苦渋と恥辱の本懐を、演技者は、演劇者はどこかで常に抱いてる。『相談者たち』は、練りに練られた笑いの空間のなかで、ファニーでブラックなシチュエーションコメディにおいて、その事実を端的に示す。恥じらいを受け流すために笑ってた演者たちは、最後にはもう笑っていない。笑ってるのは観客だけだ。『相談者たち』は、恥を引き受けようとする大人の演劇である。
伏見 瞬
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