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小春日和のなか、30年ほど時間が停まったような京浜東北線蕨駅南口のロータリーから左へほぼまっすぐに10分ほど歩くと、ゲッコーパレードの本拠地であり今回の公演場所、旧加藤家住宅がある。あまりにも一般的な住宅街の、あまりに一般的な一軒家。玄関で靴を脱ぎ、受付をすまし、座布団に座る。目の前には和室。白い布がしかれ、幾色にも絵の具が塗られている。小さい三脚が部屋の真ん中、右後ろには大きい三脚、左側にはシーツのかけられた椅子。左奥の押し入れには段ボール箱や、ソリのように見える黒く固そうな物体などがつめこまれ、ネギが容れ物に収まって立っている。二つの三脚の中間あたりで天井から吊るされているのは、白ペンキをぬられた箒。部屋の描写をはじめたらキリがないほど、物が散らばっている。英語で歌われるギターロックの曲がずっと鳴り響いている。少しフーファイターズみたいだと思ったが、確実にデイブ・グロールの声ではなかった。ゲッコーパレードの演出、黒田瑞仁からのアナウンスが告げられたあと、音楽が鳴り響いたままで、劇は始まる。『とにかく絵具を大量にかけるでしょう。そしたらあなたは目撃する。それが何であったかを。あなたと私が昔から、必ず線を引いてきたって事も。』という、とてつもなく長いタイトルを有する作品。

原作は岸田國士の一幕物『チロルの秋』。オーストリアとイタリアの国境に位置するアルプスの街のホテルで、男が女を誘惑する話。舞台には二人の女性、一人はホテルの女給と思わしき小柄な女性。もう一人は絵の具の塗られたトレンチコートを羽織った丸顔の女性。後者が誘惑されている女性のようだ。劇が始まってしばらくしても場違いにエモーショナルなロック音楽は続き、会話を聞こえにくいものにしているが、その妨害が心地よいと思ったのは何故だろう。93年前に発表された異国を舞台にした戯曲の言葉のむずがゆさを、ありふれた民家で演劇を目の当たりにしていることの戸惑いを、耳なじみの良い音楽が中和しているからだろうか。そんなことを頭に浮かべるうちに、劇では会話が何度も繰り返されており、しかもその反復は役柄が交代されながら為されていることに気づく。最初に和室の横の椅子に座って台本を棒読みしながら劇に参加していた黒田は、すぐに劇から退場する。いや、そこにいることはいるが、劇には干渉しない。その黒田が放っていた言葉を、メイド役の河原舞が繰り返し、それをもう一人の女性崎田ゆかりが再度発話する。音楽が鳴りやんだ後には反復はよりあからさまになる。会話が戻るたびにいかがわしいメロディのブリティッシュフォーク風の音楽が鳴り、黒田が座る場所に向けられた三色照明が回る。セリフのリピートにつぐリピート。しかし、どこか言葉がつながらない。なにかがおかしい。

現代美術家の柴田彩芳が舞台美術として参加して最初の公演となる本作は、「絵画上演No.1」を名打たれているように、舞台の気配にしろ、役者の動きにしろ、絵画を思わせる構図への意識を感じさせるものだ。特に、色とりどりのコートを着た崎田ゆかりが椅子に座って、両足を揃えて足を右に流すポーズを取っているときは、このシーンこそが「絵画」と呼ばれるものだ、と早急に決断づけたくなる時間の固定化を覚えた。会話の反復も、絵画という芸術様式の中に描かれる世界の無時間性に奉仕している。

しかし、劇が後半に入ると、固定化されていた時間が急に動き出す。そして、なにかがおかしいと感じていた理由が明らかになる。ある出来事が起こるからだ。そこで、エロスと笑いが同時に立ち現れる。気怠げに、相手を見下すような冷たさを常に漂わせていた崎田の言葉が、一つのきっかけ以降戸惑いを含んだ、浮き足立った口調へと変わる。今までの静的な反復が崩れさり、動的要因が彼女に肉を与える。絵画として機能するかに見えた崎田の身体が突然、立体的・動的に受肉されるのだ。途中で右奥の引き戸が開かれ、外にある木からもぎ取られた柑橘系の果実が食されると、甘酸っぱい匂いを観客の鼻が触知する。官能的に感性を刺激された私たちは、その急襲に抗う術を持たず、性的な高まりと笑いに身を任せる他ない。さらに、崎田は和室のフレームから離れ、観客には見えない廊下をつたって、客席の左横のキッチンに移動する。そこでの体の動きは私の席からは見えないが、声と熱は確かに感じられる。60分の上演の最後の20分は、絵画を裏切る時間性、立体性、肉感性を受け入れる時間だ。しかし、全てが興奮と緊張のるつぼに包みこまれようとする瞬間、再び静けさが辺りを通り抜ける。原因は戯曲に含まれる一つの謎によるものだ。何故ああなってしまったのか。理由はいくらでも考えうるが、答えは明示されず宙づりにされている。立体化の急流は断ち切られ、また、平面の絵画がはじまる。絵画から時間と肉体が想像できたという興奮の声を聞いた瞬間がまるで嘘のように、崎田はふたたび椅子に座り、足をそろえてポーズを取る。

この上演が、絵画が演劇になるという運動を開きながら再度抑圧していくのは、平面が突如立体に膨らむことの、勃起性のぎらつきを知っているからだろうか。演劇が絵画を求め、絵画が演劇を求める。その欲望はとても自然なことで、だからこそ剥き出しにされてはいけない。いかがわしさを押させこむように、言いようのない恥じらいを覚えたかのように、静かに平らに、劇は収束していく。チロルの一夜と蕨の白昼の間に訪れたぎらついた輝きはどこかへ逃げていき、散らばった物と絵の具だけが、目の前に残った。ゲッコーパレードは、絵画と演劇が出会う際の、一線をこえて浸透しあうエネルギーの熱気を、60分の中で捉えてみせた。交流は一瞬で途絶えてしまうが、火照りは残る。上演後、会場を出てすぐの公園で子どもが遊んでいるのを見た時に覚えた場違いな感覚は、まだあの膨らみの錯乱が記憶に佇んでいたからか。小春日和の日差しが眩しい。

伏見 瞬