(ネタバレを含みます)
青年団リンクキュイの新作では「夢」と設定されたばらばらの4つのシチュエーションを8人の俳優がそれぞればらばらの役になって繰り広げられる。それはクリストファー・ノーランの『インセプション』や押井守の『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』のような複数の夢同士をはしごする作品と紹介すれば少し、イメージしやすいかもしれない。しかし、編集一つで空間や時間の移動が可能な映画とは違い、「今ここ」を共有し続ける演劇は、そのような時空間の移動に一層の工夫が必要となり、観客の拘束にも意味付けが求められるだろう。そこで、キュイはどのようなアプローチに至ったのか、分析してみよう。
一つ目のシーンは公園から始まる。舞台奥に置かれた出演者と同じ数、8脚の椅子はベンチとなり、その上に路上生活者役の男が横たわり、彼の前にやってきた若い男女がダンスの練習を始める。路上生活者が二人に「もう少し静かにしていただけないでしょうか」と声をかけると、男の方が逆上し、「やかましい男、ホームレスを殴打」とト書きのようにセリフを言って予告した後、腕を振りおろしながら、拳が相手に当たるタイミングで強く舞台の床を、ドンっと踏み鳴らす。そこに警官らしき男が現れ、若い男女、路上生活者、草むらで性行為に及んでいたカップル、こそ泥、ハサミを持った女らを次々と一方的な暴力によって倒していく。
二つ目の場面はバスの中から始まる。舞台奥の8つの椅子に横並びになった8人が乗客となっている。キャストは変わらない。公園の場面で最初にダンスの練習を始めた男だけが前の場面とのつながりを覚えている。やがてバスは拳銃を持った男にハイジャックされ、彼は乗客を次から次へと撃ち殺していく。妹を殺されて逆上した乗客の一人がハイジャック犯を取り押さえるが、犯人がバスの下に仕掛けた爆弾によって乗客は全員死亡。次の場面に映る。
舞台奥8つの椅子の中央に先ほどの「前の場面」を覚えている男ともう一人、女が並んで座っている。二人は同棲している大学生のカップルのようで、バスジャックの「夢」を見ていた男の方はうなされて深夜に彼女と横たわっていたベッドの上で目覚めたようだ。翌日の大学の授業に男と、女の方は遅れて、出席することになるが、学内に侵入した拳銃を持った不審者によって別々の場所で二人ともそれぞれ殺されてしまう。
4つ目の場面は別の女のモノローグから始まる。29歳で実家暮らし、カフェでアルバイトをしている彼女の退屈な日常が描かれるが、その退屈さに耐えられなくなった彼女が母親、カフェの店長と客、そして自分自身を毒殺してしまう。
中盤の物語は、4つのシチュエーションについて唯一の記憶保持者である男がこの「登場人物全員が死んでしまう世界同士のループ」から抜け出そうとすることで始まる。男は殺戮の首謀者たちに立ち向かい、事件を未然に阻止しようとするが例えばバスジャックについてはバスから出ることができなかったり、公園については公園の森もまたそこから抜け出すことのできない迷路になっていたりするせいでことごとく失敗していく。それぞれのシチュエーションはテレビゲームのダンジョンのようになにかしらの瑕疵によってリミットを持った不完全な空間のようだ。一方で、個々の世界の別々の人物が「ここは世界の棘、ここは世界の塊、ここは世界の縮図、ここは世界の最も邪悪なところの代表」といったセリフをイヤーワームのように繰り返し、ちょうどそれが一人の人間の記憶のメモリーダストとして構成された夢のような仕掛けにもなっている。それ自体はかなりデジタルな、つまり記号的なアイディアによって成り立った世界観にも見え、主役らしき男はロジックでその構造をほどこうとし、彼がそうしようとすればするほど世界同士はその構造の不条理な不完全さによって彼をループに閉じ込める。これがゲームならクリア不能なクソゲーな訳だ。
では、その中で演劇というライブパフォーマンスはどのように成立しているのだろうか。先ほどの公園のシーンで説明した素手やバットで人を殴るときに、出演者が殴打のモーションに合わせて床を踏み鳴らす動作に注目したい。それは「振り」にはなっていると同時に、とりわけ最前列に近い観客には生々しい体の揺れを体感されるようにはたらく。出演者にと同じ空間を共有しながら、観客はとりわけ同じループの構造から抜け出せない記憶保持者に観客は視点を同化させてこの演劇を見ることを強いられるだろう。そこでは、小劇場の小さな空間性が「ここから出られない」ということを一層強調する。さまざまな場所に想像力で移動することが可能な演劇というメディウムが、そのメディウム自体が持つフレームに観客を一貫して縛り続けることを強調もしている。
ループからどうやって抜け出すのか。まず最初に殺戮の首謀者を、そして関係ない人間を、最後には自分自身も殺して彼がこのクソゲー内でまだされていないコマンドが可能な限りの選択肢をモラルを超えて探っていく。そのもがきのような動作が象徴するのがあの足の踏み鳴らしだ。それは誰かに対する暴力であると同時に、その場所から動けないという足踏みでもある。そして目の前の決められたゲームのルートをたどるのではなく、そのゲームの設定自体を壊そうとするインフラ=劇場自体への物理攻撃でもある。本作は、この足踏みによっていかにプレイヤーがゲームというフレーム自体と敵対しうるかというのをかなり物理的なレベルで実践している点だ。
そして最後に、もう一つの「足踏み」について触れる。それは各シーンの最後、舞台上に転がった死屍累々が立ち上がるときの最初の一歩である。それはシチュエーションからシチュエーションへの移行の時間であり、そのとき、実際には役者たちがあくまで殺し合いごっこをしているにすぎないことが暴かれる。そして、それは誰かに攻撃するときよりもずっと優しく、さりげなく、取るに足らないやり方で地面に足が踏み下ろされる。
本作の結末もまたこのループから抜け出すことではない。あるいは忘れたふりをしながら目の前の現象を受け入れて、目覚めのときがきたらそれに従うことに着地するようにも見える。本作がループの設定として描くような「運命」が私たちの人生にも、筋書きのようなものよりも一層わかりにくい不明瞭な形で存在するのかもしれない。屍体が立ち上がるときのその身振り、これは演劇にすぎないということを暴くようにも作用するその身振りはその「運命」への作品の一つの態度を示している。それは絶望からの従順でもなく、反抗的な拒絶でもない。余裕を持ったある種の受け入れ、生の肯定としてこの作品は、あの役者が役と役の間を行き来する誰でもない時間を描いたのではないだろうか。
イトウモ
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